What happened?
最近、うららの様子がおかしい。
本人は隠しているつもりでいるようだが、ふとした拍子に疲れた表情をする事が多くなった。
「ハァ......」帳簿をつける手が止まり、遠い目で窓の外を眺める。
パオフゥはそれをチラリと見やった。
無言のまま、視線を下に動かす。
先週あたりからほぼ毎日、うららは、OL時代に愛用していたというスーツを着てくるようになった。一体どういう風の吹き回しか尋ねると、「あ、うん、ちょっと用事があってさ」と言葉を濁すような素振りをみせた。そして、時折ため息をこぼしたり、遠くを見たり、難しい顔をして考え込んだりと、いつもの彼女らしからぬ動作が増えた。
そのくせ、仕事が終わると待ちかねたようにメイクを直し、そそくさと帰っていくのだ。
(さてはコイツ、また悪い病気がぶり返しやがったな?)
彼の知る芹沢うららという人物は、どんなときでも、異性という花から甘い蜜を集めなければ生きていられない蜜蜂のような女だった。その習性を悪い男に利用されて散々痛い目を見たくせに、伊達男と出会う度に付き合うだのゲットだのと息巻いては、周囲の人間を呆れさせたものだ。
JOKER騒ぎに端を発する一連の事件を通してパオフゥへの想いに目覚めてからは、鳴りを潜めていたはずだったのだが......。
彼女からの好意を知りつつ、のらりくらりとそれをかわすパオフゥに愛想を尽かして、とうとう再び見合いパーティーにでも通い始めたに違いない、とあたりをつける。
苦虫をかみつぶしたような顔をして、咥え煙草でキーボードを叩きながら、パオフゥは心の内でぼやいた。
(『運命の出会い』とか言ってたのは、一体どこのどいつだったかねぇ?)
しかし、そうは言っても、実らぬ果実にいつまでも水をやり続けることのできる人間はそういるまい......と、頭では分かっていた。
いくつかの試練を乗り越えて随分強くなったとは言え、彼女も一人の女性だ。長く報われなければ、寂しさに心が折れてしまう時もあるだろう。それを、咎めることはできない。
だから、間違っても「そんなとこ行くのはやめとけ」などとは口にできず、やたらとハイペースで煙草をふかしては、苛立たしげに煙を吐き散らすしかないのだった。
灰皿の上にうず高く積みあがった吸い殻を見て、うわ、と声を漏らしたうららが、腰に手を当てて睨んでくる。
「ちょっと、なにイライラしてんのさ。そういう吸い方、身体に悪いからやめた方がいいわよぅ」
「うるせぇな。放っとけよ」
ぶつぶつと文句を言いながら吸い殻を捨てに行くうららの背に向けて、チッと舌打ちをした。
すると、間を置かず、携帯電話のバイブレーションが彼女のデスクを振動させ始めた。うららは、灰皿を給湯室に置いてすぐさま小走りで戻ってくる。
「......もしもし。ちょ、ちょっと待って」
電話を押さえながら小声で電話に応じたうららは、人目をはばかるように廊下へと出ていった。その振る舞いに、パオフゥの眉間の皺がより一層深くなる。
(俺に聞かれるとまずい話だってのかよ)
様子がおかしいことはもう丸わかりだというのに、この期に及んで、コソコソと隠し立てをされると無性に腹立たしい。パオフゥは足音を忍ばせてドアに近付き、そこに耳を付けた。
「ごめん、今夜は無理......腰痛いし。ホント、疲れてんのよ」うららの気だるげな声が聞こえる。「え?だらしないって......アンタのせいじゃない。あんなに、もうやだって言ったのに......帰らせてくれなかったんじゃん」
(......な、何だと?まさか......)パオフゥはごくりと唾を飲んだ。
「......わかったわよ。行くけど......今日は一回だけだかんね。仕事に響いちゃって、困ってるんだから。......うん。じゃあ、後でね」
通話が終わってしまう。
慌ててドアから離れ、自分の席に戻ったが、急いで座ったせいで椅子のキャスターが滑ってしまい、元々座っていた位置から大きくずれてしまった。
とっさに、背伸びをするフリをしてごまかすパオフゥ。
幸いなことに、うららは特にそれを気に留める風でもなく、首筋を揉みながら、深く息を吐いて椅子に身を預けた。
「......」
その姿を見ながら、胃の腑に何か冷たい痛みが広がっていくのを、彼は感じていた。
これはもう、見合いパーティーなどという段階ではない。既に、もっと先へ進んでしまっている。そう確信した。たった数日の間に......いや、数日もあれば、若い男女がねんごろな間柄になるには充分と言えるだろう。
ということは、あのため息は。
恋に悩む女のそれではなく、求められて寝不足の疲労に悩む女のそれだったというのか?
パオフゥは愕然とした。
「じゃ、悪いけどお先に......」
今日もうららは早々に引き上げていった。ビルを出ていくスーツ姿を窓から確認し、急いでパオフゥも事務所を後にする。
エントランスを出ると、ちょうど横断歩道を渡り終えたうららの後ろ姿が見えた。どうやら、駅の方に向かって歩いていくようだ。気配を悟られないよう、慎重に距離を測りながら、彼は尾行を開始した。
仕事を終えてこれから一杯やろうというサラリーマンや、家路をたどる人々の間を縫って、繁華街を行く。
万が一にも見つかったら大ごとだ。
「なぁんで人の周り嗅ぎ回るわけぇ!?私がどこで誰と何をしようが、アンタに関係ないじゃん。ちっとも振り向いてくれなかったくせに、今更口出しすんじゃないわよ!!」
と罵られ、得意のコンビネーションブローを容赦なくお見舞いされるに決まっているのだ。
電柱の影からじっと彼女を見る。
心というものは、こんなに簡単に離れてしまうものなのか?
彼の過去を知ってもなお、余計な詮索や干渉をせずに隣で寄り添ってくれたうらら。ずっとひたむきな想いを捧げてくれた彼女が、あっさりと他の男に鞍替えしたなどと信じたくはない。
胸苦しさに押しつぶされそうだ。
後方からパオフゥの湿っぽい視線を受けていることなど露知らず、うららは、やがて駅前にあるビルの一つへ入って行った。
ビルの外壁には、パブやエステサロンなど、いくつかのテナントによる派手な看板が掲げられていた。白いタイルに覆われたその入口は、人ふたりがすれ違える程度の狭さしかなく、閉鎖的な印象を受ける。目的を持って訪れる人以外は、滅多にここを通らないだろう。
駆け寄って中を覗き込むと、うららが乗り込んだであろうエレベーターが見えた。表示灯が動いて、五階で止まる。
ちらりと案内板に目をやった彼は、その場所に何があるのかを知って目を見開いた。
「......!!」
パオフゥは衝撃を受け、よろめいた。思わず壁に腕を付いてもたれ掛かりながら、彼は呟いた。
「......クソッ、こんなこと......知りたくなかったぜ」
裏切られた、と思った。
同時に、彼女のことを心底理解できていなかった自分への憤りも湧いてくる。
痛みを堪えるような顔をして、パオフゥはふらふらと歩き出した。切ない目で一度だけビルを見上げたが、振り切るように背を向けると、そのまま夜の闇の中へと去って行った......。
それから数日が過ぎた。
「おはよ......」
事務所のドアががちゃりと開き、相変わらず疲れた顔のうららがやってきた。
コートを脱いで自分のデスクにつこうとしたうららに、険しい顔のパオフゥがゆっくりと近づいてくる。小脇にかかえた紐付き封筒を、彼は無言のまま、うららに差し出した。
「何コレ?私に開けろっての?」
不思議そうに首をかしげながら、うららは紐を解いた。封筒を逆さまにして振ると、デスクの上に写真が数枚飛び出す。
「......!!こ、これって......」彼女はハッとして蒼ざめ、パオフゥを振り仰いで眉をつり上げた。「どういうことよ!?私のこと尾けてカメラ仕込んだの!?ひどいじゃん!」
「何で......俺に黙ってた?」パオフゥは煙草を咥えた。「やましい気持ちがあったから言えなかったんだろう。違うか?」
怒りを含んだ低い声に、うららは怯んで視線を逸らし、写真の端を握りしめて黙っていた。
シュボ、とライターの火が燃え上がり、ややあって、二人の間にゆっくりと紫煙が漂う。
「私......アンタの足引っ張りたくなくて。......でも、彼なら安心して委ねられるって思った......」
「......」
「だから、友達に頼んで紹介してもらったの」
「馬鹿な......奴だ」
パオフゥは悲しげに唇を歪めた。
「......お前なぁ。仕事で必要なことなんだから、質問すりゃいくらでも答えてやるのによ。その分野ではエキスパートの俺を差し置いて、わざわざ、パソコン教室なんかに通うかねぇ!?」
写真には昨日の日付が入っており、"カシオペア・パソコンスクール"と書かれた看板が下げられた玄関から出てくる、うららの姿が写っている。
それを見送っているのは、齢七十を超えようかというえびす顔のお爺さんだ。
「いや、"なんか"っていうけどさ、結構面白いし勉強になるよ!このおじいちゃんね、タイピングめちゃめちゃ早くて、マジびっくりするから」
「だからって寝不足になるまで通い詰めるか?」
「......その例のスクール紹介してくれた友達さ、一緒に講座受けてるんだけど、すごい張り切って二回分ずつ受講申し込みしちゃうのよぅ」
泣きそうな顔をするうらら。椅子に座り、デスクの上にバタンと突っ伏して呻く。
「二回受けたら四時間でしょ?もう帰るころにはクッタクタよぅ。目はシパシパするし、肩も腰もイッタイし」
あの遠くを見る目は、単なる眼精疲労だったらしい。
「馬鹿野郎、そんなのもうやめちまえ」
「でも私、最近上達したと思わない?ブラインドタッチも結構できるようになったしさ」ムクリと起き上がり、得意そうな顔をパオフゥに向ける。「昨日、ついにexcelのマクロとかピボットテーブルとか使えるようになったから、じゃんじゃん効率アップするわよぅ!」
パオフゥは呆れ顔で腕を組んだ。心に引っかかっていた疑問を投げかけてみる。
「芹沢。お前、"自分探しはもうおしまい。習い事に躍起になるのもやめる"って言ってなかったか?......なんでまた、習い事やろうと思ったんだよ?」
うららは瞬きをして、少し笑った。
「うん。自分のアイデンティティを確立するためのパーツは、もう要らないの。でもさ、私のやりたい事を実現するためのツールは必要でしょ?私、パオの頼れる相棒になりたいんだ。気付かれないように互角に渡り合えるぐらいの実力を付けて、ギャフンと言わせたくてさ......」
「......なるほどな」パオフゥも笑った。
彼女の心が離れてしまったのでは?だなんて、やはり余計な心配だった。安心すると同時に、もう少しぐらい、距離を縮めることも考えてみてもいいかもな、と思う。
「言っとくが、そんな平和ボケした爺さんに師事したって、数多の修羅場を潜り抜けてきた俺のスキルにゃ、何年かかったって追いつけねぇぜ?金が勿体ねぇと思うがな」
煙草の火を消し、うららの机に手をついて、その顔を覗き込む。
「なあ、強情張らずに俺に頼れよ。俺が毎日パソコンのノウハウを教えてやる。タダじゃあ気が引けるだろうから、週末にお前さんが俺に酒を奢る。スクールに通うよりは安くあがるだろ?」
彼の顔の近さと、突然の提案内容にどぎまぎして、うららは身を強張らせた。
「......え?毎日?」
「そうだ。毎日、手取り足取り教えてやるぜ」
「てっ......!?」
意味深な囁きに、うららが赤面して慌てふためくのを眺めながら、パオフゥはニヤニヤと笑いながら思った。これから楽しくなりそうだな、と。


