路上のふたり


 春を待たず、退職届を出した。

「困るなァ、なんで今なの?君に抜けられちゃうと新人教育に手が回んなくなるよね。ここだけの話だけどさ、来期からセールスチーフに据えようって話になってんだしさ、もうしばらく続けてみないか。......そそ、君をだよ。勿体無いよ、せっかく今まで頑張ってきたんじゃん」
 いつになく猫なで声の上司に、困ったような作り笑いで謝罪を繰り返した。

(あれだけ寿退社にこだわってたのに、あっさりしたもんだな)
(なんかあったんじゃね?社内恋愛で修羅場って居づらくなった......とかさぁ)
(えー?そんな話聞いたことないけど。でも芹沢ちゃん、いっつも色恋がらみでギラギラしてたもんね)
(ちょっと、聞こえるよぉ......)
 その背に注がれる野次馬根性丸出しの視線、 同僚のヒソヒソ声をやり過ごした。
 彼女はもう、つまらないことで傷付いたり悩んだりはしなかった。心のトランクに、小さな輝きを放つものをひとつだけ大切にしまい込んで、うららは一人、新しい旅路を歩き始めた。

「......本当に辞めるって言ってきたのかよ」パオフゥが、キーボードを打つ手をとめて少しだけこちらを見た。唇をへの字にして困ったような顔をしている。
「うん、来月末まで。引き継ぎあるしね」
 ダンボール箱の上で書き物をしながら、なんでもなさそうに、淡々とした声で答える。うららは壁際の床にクッションを敷いて座っていた。
 パオフゥはと言えば、敷き布団の上にあぐらをかいて、膝の上に置いたノートパソコンと向かい合っている。
「ったく、早まりやがって。多少依頼が増えたって言ってもよ、今後も継続して来るかどうかは分かんねえんだ。コレでおまんま食って行けるかどうかなんて、何も保証ねぇんだぞ」
 天井から無造作にいくつも吊るされた裸電球たちが「そうだ、そうだ」と同調するように、チラチラ不安げな明滅を繰り返した。先の見えない未来、引き返せない一本道、その薄暗さが心に影を落として、胸が苦しくなる。
 ううん、そうじゃない、こんなあなぐらみたいな所にこもってるから息がつまっただけ。うららは、コンクリート打ちっぱなしの壁にそっと目を走らせた。以前のアジトより手狭で陰気な感じのするこの部屋で、パオフゥはもうかれこれ数ヶ月のあいだ生活をしている。
 もう少しまともな場所に住めばいいのに、と言ってみても取り合おうとはしない。
 決して金に窮しているわけではないのだ。持ち合わせはそれなりにある、とパオフゥは言っていた。心に復讐の炎を燃やしていたころ、盗聴で得た情報の横流しや株の不正取引、その他の多少汚いことをして稼いだ活動資金が隠し口座に残っていて、そこに、あの戦いのあと皆で分配した余剰金を足したのだとか。片手間で始めた人探し稼業も今のところは盛況で、とりあえず、当面のところは依頼が途絶える気配がない。
 一方、彼女は。
「......私、今の家、出ようと思ってるんだよね」
「はぁ?」咥えタバコのまま、パオフゥが振り返った。「会社は辞めるわ家出るわって、お前......」
「多分、マーヤの世話焼いてるとね、自分に足りないものが満たされてた気がする。私の方が、あの子より家庭的だし女の魅力がある、って、心のどっかで優越感にひたっちゃってたと思うんだ。やな感じだよね、私」うららは、痛みをこらえるような弱々しい顔で笑った。「もう、そういうのやめにしたからさ、いい機会だなって思ったの。マーヤの方も自分の力で頑張ってみたいって、賛成してくれて。で、ルームシェアは円満解消」
「......ふーん。お前さんも天野も、成長したんだねぇ」
「成長はいいけどさ、ちょっと思い切りすぎたわ。安定した収入無くなったとたん、ルナパレスの退去費用に引っ越し代、新しいアパートの敷金礼金。これでアンタの仕事が打ち止めになったら、私、太郎と二人で寂しく飢え死にしちゃうかも。うー、こりゃヤバヤバだわ。頑張って依頼増やさなきゃね」
「二人、ねえ」
 パオフゥは、大きめの水槽の中で気ままに泳いでいる魚の姿を思い浮かべた。寿司屋のいけすから引き取られて命拾いしただけでなく、毎日たらふく餌を与えてもらって体長が十センチ以上も増したというから、食用魚としてはきわめて稀なラッキー人生(魚生?)を送っていると言えよう。
「飢え死にする前にその丸々太った魚を食えっての......」
 生きものと暮らすという行為は、人生のリソースを多く要求されるものだ。金、時間、こころ。それらを他者に割く余裕が、今のうららにあるのか。頼りなげに時折またたく電球の光を見上げながらパオフゥは密かに思ったが、口には出さなかった。

 俺は選択肢を誤ったのだろうか、とパオフゥは考えていた。

 あの戦いのあと、街はゆっくりと降下して地上へ再び根を下ろした。しかし着陸に伴う大きな衝撃によるビルの倒壊、地割れ、火災、送電線や水道管の分断といったさらなる災害を免れることはできず、多くの犠牲者が出た。
 噂掲示板にも悲痛な叫びが溢れた。
《○○町付近で二十代の男性を見ませんでしたか?あの日は赤いニット帽をかぶっていて、限定品のG-SHOCKを着けていたはずです》
《母が行方不明です。写真添付します。なんでもいいので情報下さい》
 パオフゥは噂ホームページを畳むつもりで覗いたのだが、少し悩んで、掲示板をこのまましばらく残すことにした。しかし、行方不明者の情報だけでなく、浮上騒ぎ関連のデマや根も葉もない憶測が飛び交って、有益な情報はほとんど書き込まれなかった。
 見ていられなくなって、避難所の連絡先や小耳に挟んだ目撃情報を書き込んだりもした。どうしても見つからないと嘆く者がいれば、
《遺体安置所には行ってみたのか?》
 と促したが、しかし、返ってくるのはこのような回答ばかりだった。
《彼女は生きています。死んだなら僕にそれが分からないはずがないですから》
《きっと、この家に戻ってきたくないだけなんだ。それなら、仕方ないよな......》
 パオフゥは自ら、遺体安置所へ向かった。彼を突き動かしたのは、善意などという優しい言葉で片付けるには苦すぎる感情だった。迫りくる現実を受け入れることを拒み、目を逸らさずにはいられない人々の絶望と怖れが、彼にもたらしたもの。それは共感であり、痛みであった。
 遺体安置所となっている丘の上の廃校を訪れると、目を覆いたくなるような惨憺たる有り様が広がっていたが、はたして、そこで彼は数名の尋ね人を見つけることができた。捜索者へ連絡を取り、遺体と引き合わせると、みな一様に泣き崩れた。

 パオフゥは校門前のガードレールに腰掛けて、夕暮れの街を見下ろしていた。煙草の灰が持って行かれるほどの強い冷たい風に、道端のエノコログサが千切れそうになりながらはためいていた。
「あの......ありがとうございました。管理人さん」
 泣き腫らした目をした青年が傍へ寄ってきて、ぺこりと頭を下げた。力の無い声だった。
「この先、どうやって生きていけばいいのか、まだ分かんないです。けど、ちゃんと最後に会って、サヨナラを言うことが、できて......うぐっ......う。ぼ、僕はっ......」それ以上は、涙が溢れて言葉にならないようだった。
「そいつぁ良かったな」
 パオフゥは煙草を吸殻入れにねじ込み、深く息を吐いた。白い煙が、生じる端からあっという間にもみくちゃにされて、墨を流したような空に掻き消えてしまう。まるで、腹をすかせた虚無が何もかもを目茶苦茶に吸い込んで行くみたいだ。ただただ寒くて、暗くて、パオフゥはやりきれない気持ちになる。
「やれやれ、ボランティアにしちゃあ、ちっとキツすぎるがな」
 単なる独り言だったのだが、
「......そうですね」青年はぐしぐしと鼻をすすりながら言った。「この、お礼は、ちゃんとお支払いします。もし......できるなら、僕のような人間をこれからも助けてあげて下さい」
「......俺がか?」
「はい。色んな理由で自分と向き合えない人、帰りたくても帰れなくなってしまった人、まだ、たくさんいると思いますから」
「......」
 考えてもみないことだった。自分で志したのでもなく、生きていくために仕方なくやるのでも、まして、復讐を成し遂げるためにやるのでもない。誰かに求められてやる仕事。そんなものが世の中には存在するのだ。
 至極当たり前のことだ。しかし、言語という概念を突如理解したヘレン・ケラーのように、パオフゥは大きな衝撃を受けていた。そして、わずかに輝くか細い光の道が、彼の眼前から未来に向かって伸びているのを、確かに感じたのだった。

 噂サイトのトップページに、"人探しのご依頼はこちらから"のリンクを貼った。すると、その日のうちに三通もメールが送られてきた。
 そのうち二通は依頼メールで、残りの一通は
《な~に?新しい仕事始めたの?依頼料っておいくら万円なワケ?》
という冷やかしメールだった。勿論、送り主は芹沢うららだ。
 遊びじゃねえんだ、引っ込んでろ。舌打ちしながら呟いて、パオフゥはメールを無視した。
 なにしろ、やる事は山ほどあった。国立探偵とも渾名される特捜検事の経歴を持ってはいるものの、民間の探偵業はそれとは勝手が違う。勢いにまかせて見切り発車してしまったが、着手金や成功報酬、依頼方法や簡単な約款......様々なことを手探りで策定していかなければならない。カメラやレコーダーといった必要な機材は一通り揃っているのが、せめてもの幸いだった。
 そうしている間にも、依頼メールは続々と送られてきて、目も回るような忙しさだ。片っ端から依頼者とコンタクトを取って、パオフゥは調査に取り掛かった。
 ここでも、噂屋時代に培ったものが役に立った。情報提供者とのコネクションだ。"情報屋"、と言い換えれば専門的な職業のように聞こえるが、実は彼らはごく普通の人々であり、それぞれの日常を送りながら全国に点在しているのだ。彼らはときに"チクリ屋"、"タレコミ屋"などと呼ばれることもある。
 顔つきや服装、背格好などの人物像をもとに目撃証言を募り、手がかりがあれば現地に赴いて聞き込み調査を行った。解決した依頼がすべて良い結末だったとは言いがたいが、何かから解放されたような依頼者の安堵の顔を見るたび、パオフゥは思うのだった。
(まあ、しばらく続けてみるのも悪かねえかもな......)

 しかし、それにしても忙しすぎた。
 ある日のことだ。ねぐらに帰ってきて、コーヒーでも入れてもうひと仕事するか、とポットに水を足した直後だった。胃のあたりがムカついて、視界いっぱいが虹色にギラギラ光り始めたかと思うと、受け身を取る余裕もないまま彼は倒れてしまった。
 シンクの角で額を強打し、意識が遠のく中、「あーあ、こりゃ過労だな」とパオフゥは他人事のように考えていた。
 若い頃、似たような目に遭ったことがある。昼夜を問わず、休む間もなく駆けずり回って仕事をこなしていたら、こうなるのだ。美樹が見ていたら、きっと怒るだろうな。嵯峨さん、またそんな無理をして、相変わらずね。あなたはいつもそう、熱中すると周りのことなんか何も見えなくなるんだから......。
 朦朧としながら、せめて水を飲もうと必死に起き上がり、蛇口まで這い上がるためにもがいていると、ポットのそばに置いた携帯電話が鳴ったので、震える手を伸ばして通話ボタンを押した。そのまま探るようにスピーカーホンをONにする。
「......タシだけど。ねえ、アンタ今何してんの?」
 てっきり依頼者からの連絡だと思っていたのだが違った。うららだ。久しぶりに聞く声は相変わらず能天気そうだった。
「メールしてもぜーんぜん返事くんないから、電話しちゃった。......もっと早くすれば良かったんだけどさ、なんか、ほら。邪魔しちゃ悪いかなぁと思って。忙しいんでしょ?色々。元気でやってんの?」
 うららはのんきに喋っている。放っていたら勝手に一人で話を進めて、相手からの返事がないことに腹を立て、「もうアンタなんか知ったこっちゃないわよ!このトンチキ!」と怒鳴って切ってしまうだろう。
 とりあえず返事をしなければ、と思い、パオフゥは携帯電話になんとか顔を近づけて応えた。
「......芹、ざ、わ......」
 思った以上にしゃがれた掠れ声が出た。
「えっ?ちょ、ちょっとパオ?どうしたの?」慌てた声が聞こえる。「......何かあったんだね、もしかして怪我してんの?具合悪いの?すぐ行くから場所教えてよ、そこどこ?」
 矢継ぎ早に問われて、思わず、最寄りのバス停の名前を口走ったように思う。パオフゥの意識はそこで途切れていた。

 再び目覚めたとき、彼は流し台のすぐそばの床で仰向けに横たわっていた。しかし、首の下には枕が敷いてあるらしく、程よい高さに持ち上がっている。視線を動かすと、目の奥に鈍い痛みがあった。小さく呻きながら頭に手をやると、冷たいタオルが額から落ちた。
「あ、気が付いた」
 心配そうな顔が横から覗き込んできた。タオルを拾って軽く畳み、そっとパオフゥの額に乗せ直す。
「鍵開いてたから勝手に入ったわよ。そんで中見たら、アンタぶっ倒れてるじゃん。もう、心臓止まるかと思った」
「......」
 どうだ、バス停からすぐ近くのアパートだから見つけやすかっただろ、ペルソナ使いっつうのはこういう時に便利だよな、という軽口が思い浮かんだが、それを発するほどの元気は無かった。
「......今何時だ?」
「久々に会って最初に言うセリフがそれぇ?」うららは眉を吊り上げた。「えーっと、今十一時回ったとこ。......ちょっとちょっと、まだ起きちゃダメだって!」
 おもむろに体を起こそうとするパオフゥを制し、有無を言わさず枕に押し付ける。彼は足掻いたが、驚くほど力が入らない。少し暴れただけなのにぐったりと疲れて、それ以上抵抗する気力が無くなってしまった。
「ったく、どうせ無茶な生活してるんでしょー?冷蔵庫見たけど、ロクなもん入ってないじゃん。それにPCの中もさ、仕事関係のファイルとかメールが山ほど......」
 パオフゥはギョッとしてうららの顔を凝視した。
「中、見たのかよ?」
「へへ、できるわけないじゃん。どうせパスワードかけてるでしょ?」
 うららは、引っかかったー、とばかりにニヤリと笑った。パオフゥは力なく息を吐いて、目を閉じた。こんな簡単なフェイクにしてやられるとは。思考能力が相当落ちている証拠だ。
「ま、実際忙しいんだろうなと思って、遠慮してたんだけど。電話してみたらコレだもん。タイミング良かったわ......パオさ、晩御飯もまだ食べてないんでしょ?私、もしかしたらと思って、弁当用の作り置きおかず持ってきたんだ。ちょっとレンジ借りるね」
 返事も待たずに、うららは紙袋からタッパーをいくつか取り出して温め始めた。少し経つと食欲をそそる匂いがしてきて、パオフゥの体は今さら空腹を思い出したようだった。
 タッパーの中身は、レンコンのきんぴら、根菜と油揚げの煮物、それにチーズカツだった。惣菜パンと握り飯以外の食べ物を久しく忘れていた胃袋に、じわりと染み渡るうまさだ。完食し、水をがぶがぶ飲んでようやく人心地がついた。まだ少しくらくらするが、かなり回復した。食事は大事だな、と改めて思った。
「......助かった。こんな時間に悪かったな」
「へえ、パオにしては素直じゃん」うららは満足そうに頷き、おもむろに身を乗り出した。「そうだ。ねえ、私、たまにきてご飯作ったげる。どうせ習い事も辞めてヒマだしさ」
 どこまでも面倒見の良い女だ。
 パオフゥには、こうなるかもしれないという予感があった。だから今まで、彼女に連絡することを無意識に避けていたのだと思う。
「......来るなって言ってもどうせ来るんだろ?好きにしろよ。ただし、俺は絶対にタダでは受け取らねぇからな。俺のために何かしたいってんなら、てめぇは報酬を受け取りな」
 ビシッと言ってやると、うららはあっけに取られて彼を見つめた後、プッと吹き出した。
「あははっ、何それ。借りは作らないってワケぇ?......うん、分かった。それでいいよ」
 うららは嬉しそうに笑っていた。

 それから、うららはパオフゥの部屋に足しげく通うようになった。カセットコンロしかない狭い台所だが、彼女は腕によりをかけて様々なものを作った。土鍋で作る炊き込みご飯、チリコンカン、カレイの煮つけ。とりわけ寒い日は、よく鍋物を用意し、小さなテーブルで向かい合って一緒に食べた。

 どれだけ忙しくても、あれ以来、きちんと睡眠と食事は摂るようにしている。あらかじめ外出が長くなると分かっている日は弁当を持って出たし、予定外に遅くなった時は料理が冷蔵庫に残されていたので、レンジで温めて食べた。
 そのような経緯から、彼女は次第にパオフゥのスケジュールと調査概要を把握するようになっていった。
「アンタいない時、吉沢さんから電話来たわよ。着手金入れるの忘れてたけど、まだ大丈夫ですかーだって。最短で動けるのどうせ明後日だから、明日中に振り込んでくれたらオッケーって回答しといたわよ」
「......おう」
「あと、委任状のひな型、アンタの字汚いから清書しといた。ヒマだったしね。他に書くものあったら出しといていいわよ」
 この要領の良さは、営業職で培ったものなのだろうか。そんなことを考えていると、うららはコーヒーをスプーンでかき混ぜながら呟いた。
「私、合ってるのかなぁ。前線で御用聞きやってるよりさ、マネージメントとか庶務的な、裏方仕事の方が。なんか、しっくり来てんのよね」
「......そうかい」
「このまま、パオが雇ってくれたらなぁ」
 パオフゥは資料から顔を上げた。うららはマグカップを机に置いて、盆を後ろ手に持った。
「仕事も頑張るし、掃除だってなんだってするよ。きっと役に立つと思うけど」
「......」
 こうなるかもしれないという予感があったから、連絡を取らないようにしていたのに。気が付いたらいつの間にか、境界線を踏み越えて来ている。
 侵入を許してしまっただけでなく、領地内に住まわれてしまったら、一体どうなってしまうのか?面倒ごとを背負い込むことになるのは火を見るよりも明らかだ。断れ、それが正しい判断だ、と心の声が告げている。
「......あんまりお勧めはできねぇな。俺ぁ、お前さんの人生に責任持てねぇからな」
 うららはうつむいたが、少し考えると、気を取り直したようにまっすぐこちらを向いた。
「それって、絶対ダメとは言ってないよね?」
 パオフゥは次の句が口にできなかった。イメージでは、もう少し強いニュアンスでNOと告げるつもりだったのに、曖昧な回答をしてしまった自分に困惑していた。
「心配してくれてサンキューね。よく考えてみる」
 うららが冷蔵庫の上に盆を戻して、じゃあおやすみ、と玄関から出ていくのをパオフゥは見送った。

 ......やはり、きっぱりと断るべきだったのだろうか?まさか、その一週間後に、彼女がさっさと仕事を辞めてしまうとは思っていなかったのだ。







 桜の花が満開に咲き誇る頃、うららは、新しい住所から友人たちに便りを出した。『この度引っ越しました!近くに寄ったら遊びに来てね』よくあるテンプレートそのままのような文言が、パオフゥ宛に届いたハガキにも印刷されていた。
 出先から帰ってきたパオフゥがそれを見て、ジャケットを脱ぎながら呆れた顔で言った。
「なんで俺にまで送ったんだよ、必要ねぇだろ」
「んー?いや、なんとなく。ハガキ余ってたからさ」
 うららは、自分で持ち込んだ小さなライティングデスクの椅子に腰掛けて、ダイレクトメールの封かん作業をしていた。地道な宣伝活動が効いているのか、さらに依頼は増える一方だ。この調子ならば、ちゃんとした事業として継続していくことができるかもしれない。
「ようやく片付けもひと段落したし、アンタも遊びに来てくれていいのよ。パーッとご馳走でも食べて飲もっか?ああ、でも、男呼ぶにゃーちょっと狭いかもねぇ。私んとこもワンルームだけど、今は太郎もいるしさ」
 パオフゥはペットボトルの炭酸水を飲んでから、ケッ、という顔をしてみせた。
「阿呆。お前ん家なんか、絶っっっ対に行かねぇから無駄な心配すんな」
 いつもの軽口、ただの冗談のつもりだった。しかし、うららは少しショックを受けたようだった。
「なにさ。そこまで嫌がらなくたっていいじゃん......そんなに来たくないんだ?私の部屋」徐々に彼女の怒りのボルテージが上がっていくのが、声色にはっきり表れていた。「じゃあさ、こうやって一緒にいるのも嫌なの?仕方なく、我慢してたってことなんだ。あっそう」
 そういうわけではないのだが、今更焦って訂正するのも何か決まりが悪い。「おい......何キレてんだ?俺は別に......」パオフゥが適当な言葉を探しているうちに、
「気付かなくって悪かったわね。アンタなんか絶対呼ばないから安心しなよ。バーカ!」
 うららは勢いよく立ち上がると、捨て台詞を残し、扉を激しく閉めて出て行った。
 パオフゥは、参ったな、というように肩をすくめた。たった一言で、あんなに怒るなんて。
「これが噂の、キレる二十代、ってやつか」
 独り言で冗談を言ってみても、気分はまったく盛り上がらない。
 綺麗に積み上げられたダイレクトメールの束も、衝撃でぐしゃぐしゃに崩れてぺしゃんこになってしまっていた。
 あの様子では、しばらく来ないかもしれない。せっかくここまで完成しているのだから、自分が代わりにポスティングしておくべきか?いや、一軒一軒投函していくのはなかなか骨の折れる作業で、調査と並行してやるのは困難だし、すでにうららが先日終わらせているエリアに重複投函してしまったらロスが大きすぎる。それに、彼女が来ないのなら、依頼ばかり増えてもどうしようもない。調査・報告に加えて、顧客の一次応対も、書類作りも、入金確認や督促なども、すべての工程をまた一人でやらなければならないのだ。オーバーワークが過ぎる。
 食事はコンビニでそれなりに調達できたとしても、そんな事をすれば、再び過労で倒れてしまうのは目に見えている。
 今更ながら、うららのサポートに結構助けられているのだということを思い知らされた。
 彼女の残していったマグカップから、ジャスミンティーの香りが漂っていた。友達から引っ越し祝いにたくさん貰ったのだそうだ。花の香に包まれて、所在無げに立ちつくしたまま、ぼんやりと考える。男を呼ぶには狭いかも、ということはつまり、まだ試してはいない、ということだろう。
「......なに考えてんだ俺は」
 そういう匂わせのための発言でなかったことは、もちろん分かっている。うららはただ、パオフゥに見せたかっただけなのだろう。一歩踏み出して、ちゃんと歩き出した自分を。これから頑張ってやっていくからよろしくね、という意思を。
 それを真剣に考えず、適当な軽口で受け流してしまったのは、単に距離を保ちたかったからだ。女の一人暮らしの部屋に招かれる意味を意識したからではない。決して......そうではない。

 結局、それから丸二日、うららは一度も顔を見せなかった。むろん、メールや電話なども来ない。
 最初は(余計な事、言わなきゃよかったな)と自責の念を抱いていたパオフゥだが、どうやらこちらも時間の経過とともに怒りが増幅してきたらしい。(あれぐらいのことでブチ切れるなんて短気にもほどがあるだろ)とムシャクシャしながら、ターゲットの家の前で張り込みをしていた。
 日はとっぷりと暮れて、頭上には暗い曇天が広がっていた。車の窓を開けていると、ジーという高い音で虫が鳴いているのがかすかに聞こえてくる。春に鳴くのはクビキリギスだったか、ともかく妙に生暖かい夜だった。
 カーラジオで半神戦を聞いていた。今シーズンは若手が多く登用され期待が持たれていたが、戦績は相変わらず振るわない。対する宙日は今、首位争いに名を連ねるほど勢いに乗っている。好プレー連発により二回表で四点を先取され、そのまま動かずゲームセットとなった。
「ったくよ、川平を引っ込めろってのに。今年はもうダメだろこれ」
 ぼやきながら煙草をすぱすぱ吸っていると、腹立ち繋がりで、またうららのことを思い出した。実は、このあたりは偶然にも、うららのアパートからほど近い場所なのだ。仕事をほっぽらかして、今頃、家でふて寝でもしているのだろうか?こっちは張り込みで神経をすり減らしているというのに。
 遊びに来てくれてもいいのよ、というセリフがまた頭をよぎったので、「誰が行くかってんだ」パオフゥは小声で悪態をついた。
 やがてすっかり夜も更けたが、ターゲットは一向に戻ってくる気配がない。そろそろ引き上げるか、と考え始めた頃、急にあたりが騒がしくなってきた。誰かの大声が遠くから聞こえた気がしたかと思ったら、二分もしないうちにサイレンの音が近付いてきた。
「なんだ?消防車か?」
 車を降りてブロック塀の角を曲がり、少し開けた通りに出てみると、人がわらわらと集まり始めている。そちらへ目を向けると、民家の向こうから炎と煙が立ち昇っているのが見えた。
 間違いない、これは火事だ。
 パオフゥは消防車の止まっている反対側の歩道へ回り込んで、燃えているアパートの入り口付近に取り付けられたプレートを見た。前をうろつく消防隊員が邪魔で、ようやく読み取れたそこには
『コーポ大隈』
 の文字が刻まれている。
 サッと血の気が引いた。間違いなく、うららのアパートだ。
 考える前に駆け出していた。
「あっ、ちょっと、やめなさい!入るんじゃない!」
「うるせぇっ、邪魔すんな!」
 制止する消防隊員を苦もなく振り切って、躊躇うことなく正面からエントランスに飛び込んだ。中はうだるような暑さだが、一階にはまだ火の手は回っていない。廊下沿いに配置された四つの玄関ドアは、全て閉じ切っていない状態で放置されている。この階の住人は全て避難が終わっていると思われた。
 うららの部屋は二階だ。外付け階段を二段飛ばしで駆け上がると、猛烈な黒い煙がパオフゥを出迎えた。手前の部屋のガラス窓が割れ、そこから立ち昇っているのだ。おそらく出火元はここだろう。
 外廊下の手すり越しにパオフゥの頭が見えているらしく、消防隊員がこちらに向かって何か怒鳴っているようだ。気に留めず、身を屈めながら進んで行くと、ドアが二つ並んでいて、出火元でない方に「芹沢」の表札が掲げられていた。このドアだけ、固く施錠されている。
 鉄扉に向けて指弾を連射すると、十発目ぐらいでようやく貫通した。蹴りを入れて穴を広げ、そこに手を突っ込んで内側から鍵を開ける。
 外観の様子から、きっと中は狭いだろうと予測はしていたが、案の定だった。熱風が噴き出す部屋に一歩踏み入っただけで、うららがその1Rの間取りのどこにもいないことは見て取れた。既にこの部屋の窓も割れ、壁伝いに燃え移った炎でベッドがごうごうと燃え盛っているが、人の姿はない。ユニットバスは......確認するまでもない、電気がついていないのだから、そこにはいないのだ。
 どうやら、まだ帰ってきていないようだ。ほっとして、いつもの皮肉な笑みが浮かんだ。
「やれやれ、無駄足かよ。......うん?」
 引き返そうとして、靴箱の脇に置かれた水槽が目に入った。魚が一匹、水面に浮かんでいた。プカプカと......いや、ピクピクと引きつるような動きをしている。急激な温度の上昇に耐えきれず、今まさに息絶えかけているようだ。
 パオフゥはハッとしてあたりを見回し、それから、何か閃いたように、目の前にあるキッチンの戸棚をすべて開け放った。中には案の定、大きめの鍋が収納されている。鍋を抱えて水槽に突っ込み、自分の革手袋とスーツがびしょ濡れになるのも構わず、入るだけの水と一緒に魚を掬い上げて、急いで扉を蹴り開けた。
「おい太郎、死ぬんじゃねぇ!しっかりしやがれ!今涼しいところに連れてってやる」
 廊下を走っていると、可燃物に引火したのだろうか、背後で何かが爆発する音がした。水がこぼれないよう気を付けながら、パオフゥは必死で階段を駆け下りたのだった。

 憂さ晴らしに女友達の家に泊まりに行っていたうららが、騒動の顛末を知ったのは、夜が明けてからだった。
 事情聴取から解放されたパオフゥと、警察からの連絡を受けて帰ってきたうららは、アパートの前の道路で顔を合わせた。
 お泊まり会のために持って出たらしいリュックを背負ったまま、うららは、ぽっかりと空虚な顔をしていた。落胆や憔悴の色は見られなかった。凪のような表情からは、その心境をうかがい知ることはできない。
 パオフゥは彼女に近づいていくと、気まずそうに頭を掻きながら話しかけた。
「......よう。えらいことになったが、まあ、お前さんが無事で良かった。太郎もちゃんと生きてるぜ、安心しな」
「......ありがと」
 そう言ったきり、うららはアパートの方を見つめて黙ってしまった。ようやく鎮火したが、二階はほぼ全焼となり、現場には立ち入り禁止のテープが張り巡らされている。原因は漏電によるもので、幸い、怪我人などは出なかったということだ。
 奇妙に温度を感じさせないうららの横顔を見ていると、さっきまでムシャクシャしていた気持ちがどこかへ消え失せてしまっていることにパオフゥは気付いた。
 呆然として、まだこの事態を把握できていないのだろうか?それとも、様々な感情がこころの容量を超えて溢れだしたせいで、壊れてしまったのだろうか。
「なあ、芹沢。お前、大丈夫か?」
「大丈夫かって、アンタ。大丈夫なわけないじゃん。なんも無くなっちゃったし」
 そりゃそうだ、と思った。そして、彼女が現実をしっかりと理解できているらしいことに、とりあえずは安堵した。
「これからどうするんだ?」
「どう......って言われてもねぇ」うららは困った顔でパオフゥを見た。「まずは水槽買って、引っ越し先を探す、かなぁ。また友達ん家に泊めてもらおうにも、水槽ごとってわけにもいかないだろうから、ちょっとの間、ホテル暮らしになるのかな」
 遊びに来てくれていいのよ、と言っていたうららを思い出す。こんなことになると分かっていたら、その日のうちにでも足を運んでいただろう。
 後悔はいつも遅すぎるのだ。これもまた、当たり前で分かりきっていることだ。
 パオフゥは言葉を探した。
「......その、なんだ。金は足りるのか?貸してやってもいいぜ。......無利子で」
 それを聞いて、ようやく、うららが少し笑った。
「太っ腹じゃん。そだね、いざとなったらお願いしようかな」
 いまにもかき消えてしまいそうな微笑みだったが、パオフゥにはそれ以上どうすることもできなかった。

 そのままアパートの前で別れて、パオフゥは自室に戻ってきた。結局、「落ち着いたらまた手伝いに来いよな」とは、なぜだか言い出せなかった。
 どっと疲れて、半乾きのスーツのまま、着替えもせずに布団の上に転がって眠った。予定さえ入っていなければ、夕方まで泥のように眠れただろうが、けっきょく三時間ほどで起きて身支度を整えた。
 喫茶店で待っていた新規クライアントと依頼内容の確認を済ませ、その足で別のクライアントへ報告書を渡しに行った。
 帰る道すがら、(今回受けた依頼が終わったら、しばらく休みを取ろうか......)と考えている自分に気付いた。急に張り合いが無くなったというか、ガス欠のような気分になってしまっている。春だというのに、照り付ける日差しが強いせいだろうか?頭が焼けるように熱く、コインパーキングまでの道のりがやたらと遠く感じる。

 ふと、不動産屋ののぼりが目についてパオフゥは立ち止まった。店頭の窓ガラスには、物件紹介のチラシと『即入居可物件多数』『ご相談はお気軽に!』のカッティングシートが貼ってある。
 パオフゥは焦点の合わない目でチラシを眺めていた。すると、中から、スーツ姿の店員が出てきた。
「いらっしゃいませ。よろしかったら中へお入り下さい、カタログご用意してますよ」さわやかな青年だ。彼はいたずらっぽく笑いながら言った。「外、暑いですしね」
 誘われるままに店内へ入り、テーブル席に腰かけた。店員が冷たい緑茶を持ってきてパオフゥの前に置き、向かいの席に座る。
「どうぞ。......今日はどのような物件をお探しですか?」
 どのような物件?
 そこでパオフゥはようやく我に返った。俺は一体何を。
「あ、いや......なんつうかだな。ちょっと、火事に遭っちまって、転居先を探してるっていうか、そんな感じ......か?」
 言葉にしてみると、たしかにその行動は、自分の求めている結果のためには必要なことのように思えた。まず、うららの新しい住まいが決まらなければ、復帰どころではない。自分が率先して手伝ってやるのは合理的なことではないか。
「ああ、そうだったんですか、それは大変な災難でしたね。私共、全力でお力添えさせていただきます」
 店員は、こころから気の毒そうな顔をした。
「こちらがカタログです、どうぞご覧下さい。ちなみに、ご予算などはお決まりですか?」
「いや、まだそこまでは決めてねぇな」
 うららの懐事情から考えるならば、格安物件でないと厳しいだろうが、そこはそれ、住宅手当だとでも言って今後は多めに渡せば、どうとでもなるだろう。
(しかしなぁ。俺があんな安普請のアパートに住んでるのに、あんまりいい所を見繕っても、アイツは気後れするだろうし。バランスが難しいよな)
 パラパラとめくっていると、『事務所可物件』の見出しが付いたコーナーに差しかかった。
「ん?」
 パオフゥの目が、あるページに吸い寄せられた。
 現在の自宅と極めて近い住所であり、その文字列の既視感になんとなくつられただけだったのだが、よく見れば、間取りにも妙に心引かれるものがある。
 事務所スペースと二台分のガレージが南側を占めており、北側の勝手口から入れるダイニングキッチンを挟んで西と東に一部屋ずつ、そして南東に庭付き......という平屋の物件だ。
「この家......」
 一瞬のうちに、イメージが広がっていた。それぞれのマイルームから出てくるパオフゥとうらら。ダイニングで食事をする二人、インターホンが鳴ればパタパタと出て行くうらら。打ち合わせが終わったらすぐに自室に引っ込み、ごろ寝を決めこむパオフゥ。
 このライフスタイル。いいんじゃないか?
 食い入るようにカタログを見つめるパオフゥに、店員が嬉しそうな声を上げた。
「あぁ......お客様、お目が高いですね。実は、前オーナーが経営破綻で手放されたばかりの居抜き物件なんですよね。事務所の内装がそのまま使えます、ほぼ新品ですね。空調もありますよ」
 至れり尽くせりだ。
「お時間よろしければ、今から内見も可能ですが、いかがなさいます?」
「ああ、頼む。ところで......」パオフゥは秘密を囁くような仕草で声を潜めてみせた。「さすがに今日から入居できたりしねぇよな?」
 店員はニッコリと笑った。
「お約束しましたからね。できる限りのことは対応させていただきます」






 うららはすっかり疲れ果てていた。
 本棚に隠していた通帳やカード類がすべて燃えてしまい、再発行の手続きで奔走している間に一日が終わってしまった。
 ただ、成果もあった。ペットショップの店主に半泣きですがりつき、なんとか分割払いで水槽一式を譲ってもらえることになったのだ。しかも、支払い完了まで太郎を預かってくれるという特別サービス付きだ(担保として押さえられているという見方もあるが)。
「もういっそ、パオに借りちゃうしかないのかなぁ。でも、できれば、ギリギリまで頼りたくないんだよね、カッコ悪いし。ハァ......待ってなよ、太郎。なるべく早く迎えに行くかんね......」
 ブツブツ言いながら、うららは重い足取りで夜の街を歩いていた。タクシーが通り過ぎていくのを横目で見て、ため息をつく。
 信じられないことに、財布の中身はわずか七円だった。さっき、パン屋で一番安い菓子パンを買った残金がコレだ。後先考えず、持っている紙幣をすべて、内金としてペットショップに払ってしまったのは大失敗だった。泊まってもいいよと言ってくれた友人の家まで、自力で歩いていくしかない。
 背中のリュックには、収納の奥に押し込んでいたおかげで焼け残ったアルバムなどがみっちり詰まっている。思い出の品が残ってくれたのは嬉しい。しかし、重い......。
 何度目か分からないため息をついた時、携帯電話が鳴った。友人からの「まだ着かないの?」コールかと思いきや、なんとパオフゥからだ。うららは目を丸くした。
「......もしもし?パオ?」
『お前、今どこだ?』
「え?××区役所前のバス停の近くだけど。何、なんか用?」
『バス停んとこで待ってろ。すぐ迎えに行く』
「はっ?いや、ちょっと待」
 電話が切れた。
「え、ちょ、おい!コラ!私ゃ早く行かなきゃなんないのよ!?」
 かけ直したが、運転中のようで繋がりそうにない。そうこうしている間に、昨夜から充電できていない電話のバッテリーがついに上がってしまった。
「あ、あぁ......ヤバ......先にカナコに連絡しとくんだった......」
 公衆電話はすぐそばにあるが、テレホンカードはおろか、十円玉すらない。友人の怒り顔が目に浮かんだ。
 街灯にリュックを預けて、そのままずるずると座り込み、膝を抱え込む。時々通りかかる街の人々は、たまにうららをチラリと見るだけで、さっさと通り過ぎて行く。
 一体、何をやっているんだろう。どうして、いつまで経っても運が悪く、そして生きるのがへたくそなのだろう。
 ほとほと、疲れ果ててしまった。
 膝に頬を乗せて、うららは、考えるのをやめた。ボケーっと待っていると、やがて歩道脇に車が止まり、運転席からパオフゥが降りた。電灯の下でうずくまっているうららを見て、やや眉をひそめると、黙って近付いて行く。
「......」
 しゃがみ込んだパオフゥは、うららの頭の上に手を乗せて、ポンポン、と軽く撫でるように動かした。
「パオ」むくりと起き上がったその頬に、押し付けていた膝の後が丸く残っている。半開きの口も相まって、なんとも間の抜けた顔だ。
「......なんだよ。泣いてるのかと思ったじゃねぇか」
「......泣いてないわよ。なんなのよ、いきなり。友達が待ってくれてんのに、引きとめてくれちゃってさ。おかげで大遅刻じゃん」
 パオフゥは笑った。
「へへ、まあいいから、乗れよ。いいところに連れてってやる」
「えっ」うららは不覚にも少しだけキュンときてしまった。これはもしや、急なデートのお誘い?私をさらいに来た白馬の......「......いやいや、何言ってんの。友達が待ってんだって」
「そんなのメールで断っとけ。ほれ、行くぞ」
 強引に腕を引っ張って立たされる。
「ちょっとぉ、パオってば」車に押し込まれながら、ドキドキが止まらない。さっきまで、淀んだ沼のどん底にいるみたいな気分だったのに。現金なものだ。
 うららの頭の中で、いつかラジオの懐メロ特集で聞いた『中央フリーウェイ』が流れ始めた。
 車が走り出して、滑走路みたいに夜へ飛び出していく。街の灯が煌めく夜へ。
 二人で。


 戸惑ううららの背を押して、パオフゥは建物の中へ案内した。
「電気と水道はもう通ってるんだが、あいにくガスはまだだ。ここが事務所だ」
 事務所の内装はシンプルなようでいて凝っていた。最近流行りの間接照明がさりげなく仕込まれていて、機能的でありながら高級感も感じさせる作りだ。天板が白、脚部が黒の机はモダンな印象を与えてくれる。
「で、ここがダイニングキッチンだ。こっちはまだ何もねぇから、お前さんが適当に見繕って揃えてくれ」
「はあ......」
 うららは再びポカーンと口を半開きにしている。あんなにステキな部屋が新しい仕事場で、こんなにキレイなキッチン付きだと言われても、前の仕事場であるパオフゥ宅とのギャップがひどすぎて、頭が追い付かない。
「で、こっちとそっちを俺たちの部屋にする。俺はどっちでもいいぜ、芹沢、好きな方選びな」
「はあ?」
 いよいよ、わけが分からなくなった。誰の部屋だって?
「アンタ......何言ってんの?選びなって......、はあ?」
「チッ、ったく、物わかりの悪い奴だな」パオフゥは腕を組んだ。「いいか。たまたま良さそうな事務所があったんで、借りたら、空き部屋が二部屋付いてたんだよ。俺は一部屋で足りるから、残りはテメェが使いな......ってこった。行くとこ探してるんなら、丁度いいだろ」
「な、なにそれ。こんな急に、そんな都合のいい話が湧いて出るなんてあり得......」
 うららは黙った。パオフゥが不自然にそっぽを向いていることに気付いてしまったからだ。軽く下唇を突き出して、目が上方向に泳いでいる。
「......」
「......んだよ、急におとなしくなりやがって。特に希望がねぇなら、俺が先に選んじまうぞ。後悔しても替わってやらねぇからな」
「............に」
「あん?」
「庭、が......近い方が......いいかな」
 うららの顔を見ると、真っ赤になっている。下手な嘘が思いっきりバレてしまっていることをようやく悟って、パオフゥは大いに狼狽えた。
「そ、そうかよ。じゃ、まあ、なんだ。そっちの部屋で決まりだな。今夜は......事務所のソファで適当に寝な。ベッドとか要るもんは、明日買いに行きゃいい。必要経費、ってことで、まあ」
「ちぇっ、ソファかぁ。マイルームはまだお預けだね」うららはクスクス笑った。「布団がわりに大きめのタオルみたいなもんがあると嬉しいんだけど、車に積んでないよね?」
「ねぇよ、んなもんは」
「だよねぇ。......っぎゃ!?」パオフゥが脱いだテーラードジャケットがばさりと降ってきた。
「そいつでもかぶって寝ろよ」さっさと背を向けて、彼は勝手口から出ていってしまった。「じゃあな」
 うららはジャケットを胸に抱いてぼうっとしていたが、慌てて後を追った。
「ま、待ってよ!」
 パオフゥが車の前で立ち止まる。振り返る動きにあわせてイヤリングがゆっくりと揺れ、長い髪が風になびいた。
「あのさ、言い忘れたことがあるんだけど......」
 うららは困ったようにもじもじして、上目遣いでためらいがちに......言った。

「その、......ありがと。あと、ケータイの充電器、貸してくんない?」







 居酒屋にて。

「っかー、ホント参っちゃったわよねぇ、ツイてなさすぎてさ」
 升酒に顔を近づけてグラスをくいっと傾けながら、うららがくだ巻いている。「ヤケになって久々に占いしてみたら、万事順調だよって意味の『地天泰』出てんの。やっぱ当たるわきゃないんだわ、こんなモン」
「なんにせよ、大変だっただろう。心中察するに余りある......クッ。公僕として!必ず放火犯を検挙し、君の前にっ!引きずり出してやる事を誓おうっ!!」
 拳を振り上げてスタンドアップする克哉の肩を押さえ、椅子に座らせるパオフゥ。
「あのなぁ、出火原因はコンセントからの漏電だぞ。お前さん、分解して銅線でも引きずり出そうってのかい」
「そうだとも!」雄々しく言い放った後、克哉は急にニヘラ、と相好を崩した。「......いやしかし、良かったなぁ芹沢君。生きていて本当に良かった」
 レモン酎ハイをグビグビあおり、よかったよかったと繰り返す。やーだ、こぼしてるよ周防さん、とケラケラ笑いながらうららがおしぼりで机を拭いた。
「ダメだこいつ、完全にでき上がってやがるぜ」
 パオフゥは頭を振って、もう知らん、といった顔で水割りを作り始めた。
「芹沢君、途中まで一緒に乗って行くかい?今泊まっている下宿も港南方面なんだろう?」
 上気した顔をしていてもくそ真面目っぷりは失っていない克哉が、タクシーに乗り込んで待っている。
「あー、......ううん。ちょっと寄るところあるから、大丈夫。サンキューね」
「そうか、ではまた。気をつけて帰ってくれ」
「うん、また飲もうね」
 うららは手を振ってタクシーが去っていくのを見守ると、さっきの店まで戻って逆方向へ歩いて行った。
 ガードレールの横に立って待っているパオフゥと目が合う。
「......お待たせ」
「おう。んじゃ行くか」
 パオフゥはタクシーに向かって手を挙げた。


 二人で暮らし始める時、決めたルールが三つある。
 ひとつ、同居している事実を誰にも話さないこと。
 ひとつ、お互いの部屋には足を踏み入れないこと。
 ひとつ、仕事や金銭は役割に応じて分担すること。

 まだベッドと折りたたみテーブルしかない自分の部屋で、風呂上がりのほてった顔に化粧水を念入りに塗り込みながら、うららは、その時のやり取りを反芻していた。

『ええ~?マーヤや周防さんは、まあ、もちろんだろうけど......パオのこと知らない友達にも教えちゃダメなの?』
『当たり前だ。どこで誰がどう繋がってるかなんて、分からんもんだろ。変な噂でも立てられたらたまったもんじゃねえからな、念のためだ』
『うーん。それもそっか。ま、しゃーない』
『それと、部屋には鍵をつける。互いのテリトリーは不可侵、これが鉄則だ。お前さんだって、自分のプライバシーは大切にしたいだろ?』
『うん、それは異議なし。乙女のヒミツをかぎ回られて、乙女の花園を踏み荒らされたくないもんね』
『あ?乙女?そりゃ一体どいつのことだ?』
『キョロキョロしてんじゃないわよ。失礼なやっちゃ!』

 ......思い出したら少しムッとした。まったく、そりゃピチピチの若い娘とは言えなくとも、うららだってまだまだ年頃の女なのだ。
 もっと丁重に扱ってほしい、とまでは望まないが、せめて少しぐらいは意識してほしい。
「......こっちは結構意識しちゃってるんですけどねぇ」
 何せ、特別に思っている相手とひとつ屋根の下に暮らすというのは初めての経験なのだ。意外とウブなのである。実質ほぼ乙女である。
 もちろん、同棲するほどには進展しなかった、というのも理由としてはあるが、相手が甲斐性なしのダメ男ばかりだったという不運のせいでもあることを、彼女の名誉のために、強調して付け加えておきたい。
「お前は独り暮らしだから、気楽でいいねぇ」
『飼い主の心境など知らぬ』といった態度で、広々とした水槽をマイペースに泳いでいる太郎に餌を与えながら、うららはぼやいた。
 それから、リビングダイニングのソファに座ってテレビを見たり、落ち着きなくタバコを吸ったり、暇なので週刊誌のクロスワードパズルを解いたりしていると、ようやく髪を乾かし終わったらしいパオフゥがやってきて、一人分離れた位置に座った。
「だからそのグラサン似合ってねぇって」
「うるさいわねぇ、ほっときなさいよ」
 ガチガチに彼を意識しているうららは、はじめの数日の間、風呂上がりもしっかりとすっぴん風メイクをしてから過ごしていた。しかし、さすがに手間がかかりすぎるし、肌にもよろしくない。そこで素顔を多少なりとも隠すための妥協案として、大きなサングラスをかけることにした。パオフゥはこれを「マリリン・モンローのリスペクトかよ」「お前どこで買ったんだこんなケバいグラサン」と二重三重にツッコみ、鼻で笑って茶化した。
 この男は本当に乙女心をわかっていない。
 こっちは、共用施設を使うのにだって細心の注意を払っているのだ。先に風呂に入ったときは、浴室に毛が落ちていないか念入りにチェックして出るし、トイレには消臭スプレーをこっそり持ち込んでいる。それもこれも、幻滅されたくないという健気でピュアな想いがさせていることだ。それなのに、この男は。
 恨みがましく、うららは横目でちらりと盗み見た。さっき居酒屋で飲んできたばかりだというのに、お気に入りのバーボンを部屋から持ち出してきて、ちびりちびりとやっている。
 今日の嫁売の試合結果を報じるニュース番組に向かって、舌打ちしながらブツクサ言っているパオフゥ。腹を立てて、子供みたいだ。彼が着ている新品のスウェットのセットアップは、ホームセンターへ行った時にうららが選んだものだ。ゆったりしたシルエットが、彼のひきしまった細身な体を逆に際立たせている。ズボンの裾リブから覗いているくるぶしの、骨ばったラインが妙にセクシーでまぶしい。
 うららはせつない気持ちになる。彼が好きだ。こんなに四六時中そばにいたら、好きという感情の波に溺れてしまいそうなのに、友人たちの誰にもすがることができない。胸が苦しくて、窒息してしまう。彼は知っているのだろうか?秘めた恋というものは、かえって勢いを増して激しく燃え上がってしまうものなのだ。
「なんだ、お前も飲みたいのか?」
「......」
 うららのウェットな視線にやっと気付いたパオフゥが、その意味を勘違いして問いかけてきた。
「別に。私、明日中に藤沢さんの調査報告まとめちゃいたいから、そろそろ寝るね」
「そうかい、まあ、あんまり無理しなさんなよ」
 洗面所の電気をつけ、鏡の左右に離して置いてある歯ブラシ立てを見ては、また意識してしまう。同じ屋根の下で一緒に暮らしているということ、しかし、二人は決して寄り添っているわけではないということを。
 ハァ、と大きなため息を吐いて、鏡の中のサングラス女を眺める。たしかに、あんまり似合ってない、と思った。


 恋愛以外の万事については一応、順調に再スタートを切れている。
 仕事場に移動するために割いていた時間がゼロになったことと、事務所での来客対応ができるようになり、打ち合わせのためにこちらから出向く頻度が少なくなったことで、仕事に大きく余裕が出来た。そのおかげで、うららも張り込みの交代要員として動けるようになったり、料理に力を入れたりできるようになったのだ。
 あまり積極的に料理の感想は言わないパオフゥだが、いつもよく食べて残さず綺麗に平らげ、皿洗いまで手伝ってくれるのでうららは機嫌が良かった。
 何が食べたいか聞いても「なんでもいい」しか返さないが、たまにひねりを効かせたもの(白身と黄身が逆になっているゆで卵だの、ジャックフロストの形の大根おろしアートだののちょっとした一品だ)を作ると彼は面白がって、何日も同じものをリクエストした。
 予定の入っていない夜はよく、テレビの前に二人で並んで座り、飲んだ。録画しておいたドラマや映画を見たり、ただ喋ったり。話す内容は様々で、クライアントや仕事の愚痴もたまにはあったが、ポジティブな話題が多かった。近所の愉快な住民にまつわるエピソード、人から聞いた笑える話、これから取り組んでいきたいこと、共通の友人たちの近況について。
 パオフゥを酔わせて無理やり聞き出した誕生日がもう過ぎてしまっていた時、うららはその日のうちに、急ごしらえのサプライズパーティを開催した。玄米ご飯でミートソースをサンドした土台に、クリームチーズとホワイトソースを混ぜたペーストを塗って、絞り袋でデコレーション。そこにプチトマトや三つ葉を飾って、"ショートケーキ風ご飯"を作ったのだ。見た目は完全にケーキだった。
「げげっ、何だこりゃ!ケーキにトマト乗ってるじゃねぇか」
「甘くないから!だいじょぶだって、食べてみな」
「ホントかよ~?俺を騙してんじゃねぇだろうなぁ。どれどれ、............フッ......こりゃ焼く前のグラタンだな、フフッ」
「そーね、フフッ。ちょっ、その笑いやめてよぅ。アハハハ」
「ヘッ。まあ、甘ったるいクリームよか断然いいけどよ。へへへ」


 いくつもの夜が過ぎていった。
 夜の終わりは、それぞれの部屋に帰っていく。うららは、一抹の寂しさを感じつつも、涙が出そうなほど幸福だった。
 これから先、二人の道が別々になることがあったとしても、この交差点で笑いあった日々を大切に胸に抱いて、生きていくだろう。けれど......できるなら、一日でも長く、今のささやかで優しい日常が続きますように。そう、願わずにはいられなかった。






 アスファルトから陽炎が立ちのぼる、暑い日だった。
 化粧が崩れないようにハンカチで額を押さえながら、うららが帰ってきた。片手にエコバッグを下げ、ドアを肩で押し開けて入ってくる。
「ふうう、あっつい。ただいまー」
「お疲れさん。どうだった?首尾の方は」
 パオフゥはPCで作業をしながら問いかけた。
「全然ダメ。完全に居留守使ってるわ。まさか扉破って殴り込むわけにもいかないし、お手上げだね、こりゃ」
 エコバッグからゼムクリップの箱を取り出し、自分の机に放ってから、うららは事務所の奥へ歩いて行った。
「そうか......とりあえず内容証明でも送っとけ。対応を考えるのはその後だ」
「了解ー」ダイニングキッチンの方から返事が返ってきた。買ってきた食材を冷蔵庫に仕舞っているようだ。
「......まったく、探してもらっておいて金払わねえとは、どういう了見なんだろうな」
 パオフゥは呟いた。世の中にはこういう手合いが少なからずいる。サービスは余さず受けられるのが当然と思っているが、自らの責務は果たさない、そんな身勝手な輩が。
 誰かの助けになればと思って始めた仕事で、このような仕打ちを受けるというのは、なんともやるせないものだ。
「ねえ、パオ」
 戻ってきたうららが、パオフゥの背後から覗き込むようにして彼に呼び掛けた。
「ほらこれ、見て。駅前の商店街で配ってた」
 パオフゥはカラーで印刷されたチラシを受け取った。
「ふるさと納涼夏祭り。へえ、風流じゃねぇか」
「でしょお。......で、どう?今度の土曜日なんだけど」何やら照れつつ、もじもじとスリッパのつま先で床をいじっている。
「いいんじゃねえか?まあ、ゆっくり楽しんで来いよ」
 パオフゥはいかにも興味が無さそうな素振りで、チラシを机の上に放った。ちらりとうららを見れば、案の定、彼女は眉間に深いしわを寄せてムッという顔をしている。
「あのさぁ、私は一緒に行こうって意味で言ってんだけど?ねえ。アンタ、分かっててわざとやってるでしょ!?」
「だってなあ、このクソ暑い中、わざわざ人ごみの中、疲れに行くだけだぜ。クーラーの効いてる部屋で冷たいビール飲んで、冷奴でも食ってる方が断然『納涼』って感じするだろ」
 シニカルな笑いを浮かべたパオフゥの、身も蓋もない言い分に、うららは呆れた。
「なによぅ。情緒のない男はこれだから嫌よねぇ。暑いからいいんじゃん」
「暑いからいいだと?」妙なことを言う。パオフゥは片方の眉を上げた。
「そうそう」うららは、愛おしむようなほほえみを浮かべた。「むせかえるみたいな暑さの中でさ、シロップたっぷりのかき氷とか。ビー玉がキラキラしてるラムネとか。色とりどりのヨーヨーとかさ。そういう一瞬の涼っていうのかなぁ。ちっちゃな喜びを、たくさん見つけて楽しむのが、いいんじゃん」
 パオフゥは頬杖をついて、ふーん、と言いながら、ゆっくりと語っているうららを見ていた。
「......まあ、そういう考え方も、悪かねぇかもな」
 うららはすかさず食いついてきた。
「でしょ!ねっ、行こうよぅ。行くよね。......ハイ決まり!やりぃ!へへ~、私、浴衣着て行こっと」
「ったく、ガキかよ。しょうがねえ奴だなぁ」年甲斐もなくはしゃぐ女がおかしくて、パオフゥは苦笑した。「ま、せいぜい当日雨が降らねえことを祈りな......」
 そこまで言って、パオフゥは黙った。視線がPCのモニターに吸い寄せられ、何かを捉えている。あんまり急に彼の様子が変わったので、浮かれていたうららも、風船がしぼむようにおとなしくなった。
「......どしたの?なんかあった?」
 彼はしばらく無言のまま、右手のマウスだけをカチカチ言わせていた。
 部屋の温度が一度下がったようだ、と、うららは思った。パオフゥの顔に落ちる影が濃くなった気もする。電灯に不具合が起きたのだろうか、と思わず天井を見上げるが、何も異常はない。
「依頼だ」
「ん?あ、ああ、依頼ね」うららは不安そうに相槌を打った。「なんて?誰から?」
「......俺の昔の知り合いだ。顔を合わせるとまずい。悪いが、お前独りで対応してくれ。明日の十五時に来てもらう」
「あ、ねえ、ちょっと......」
 彼はそれ以上は何も言わず、PCを消すとさっさと自室に引っ込んでしまった。取り残されたうららは、机の上に置かれたチラシを手に取って、それから小さなため息をついた。


 依頼者の名は、小早川文男と言った。
 年のころは四十台後半だが、年齢以上に老けて見えた。頭髪は薄く、長身の痩せぎすで、銀縁めがねの奥の目線がキョトキョトと定まらない気弱そうな男だ。スーツは比較的高級そうだが、かなり使い込まれて袖が光沢を帯びており、全体的に少しよれている。
「どうぞ楽になさってください」
 ソファに座って膝の上で拳をきつく握りしめている小早川に、できるだけ柔らかく声をかけてみた。彼は恐縮したように、少し頭を下げた。
「色々、お話を聞かせていただきたいんですけど、お探しの方というのは......」
「探していただきたいのは、嵯峨薫という名の男性です」
 まさかとは思ったが、本当にその名が出るとは。うららは思わず息を止めた。目の前の女性が探し人と同居しているなどとは夢にも思わない小早川は、早口で続ける。
「もう十年も前になりますが、私は、最高検察庁で副次長のポストに就いておりました。......昔の話です。今はもう、検察官ではありません」
「副次長......ですか」
「当時、私はある男と派閥争いを繰り広げていました。次長検事の、鬼瓦豪造という男です」
「鬼瓦......」名前のインパクトから、うららは筋骨隆々の男を思い浮かべた。(......なんか、空手三段って感じのイメージ。この人と真逆だわね)
「私は、検事総長のポストを狙っていた。有能な検事を何名か、珠閒瑠地検の、私の息がかかる所に置きました。その中の一人が嵯峨君です。若く有望な人物でした。そして、非常に正義感が強く、血気盛んだった。そこを鬼瓦に利用されたのです」
「......利用されたって、どういうことですか?」
 表情を曇らせるうらら。小早川は、神経質そうに眼鏡を押し上げた。
「外務大臣の須藤竜蔵が台湾マフィアと通じている、という情報を、市民からの直告と偽って彼に捜査させるよう仕向けたのです。竜蔵には脱税疑惑がありましたから、本来ならば、特殊直告係ではなく、財政経済係が捜査するはずでしたし、もっとベテランの検事が複数人で、時間をかけて捜査すべき事案でした。客観的に判断して、とても新人の彼の手に負えるものではなかった」
 地方検察の内情をよく知らないうららにとっては、理解が難しい話だった。
 簡単に言えば、鬼瓦という男のせいで、嵯峨薫は、分不相応な捜査をする羽目になった......ということらしい。
「彼の直属の上司である次席検事らと一緒に止めましたが、義憤に燃えた彼は聞く耳を持たなかった。嵯峨君は私に言いました。『目の前の鼠は早急に潰さなければ。世に悪という病を媒介するのを、あなた方はじっと見ているのか』と。......彼は台湾へ飛びましたが、同行した検察事務官とともに事故で命を落とし、火葬された二人の遺体は台湾当局から日本へ移送されました......あれは事故などではなかった」
 うららは何も言えなかった。そのことについては、よく知っている。
 しかし、小早川はこちらの目をじっと見つめて、予期せぬことを言った。
「実は、嵯峨君の遺体に関しては、歯の治療痕が彼のものと完全には一致しなかったようなのです。当局に説明と調査を求めましたが、回答は得られず、事件は闇に葬り去られました。......そして、最近になって分かったのです。鬼瓦は海外マフィアをも利用していました。嵯峨君を始末し、私の勢力を削ぐために、マフィアに情報をリークしたのです。須藤竜蔵の身辺を嗅ぎまわっている者がいると」
 うららは震えた。
「そんな......」
 引鉄が引かれて二つの人生が終わった、凄惨な事件。その暗闇に潜み、下手人に合図を送っているものがいたのだ。
 鬼瓦の密告がなくとも、遅かれ早かれ、嵯峨薫の動きはマフィアに悟られていたかもしれない。だが、浅井美樹が命を落とさずに済んだ可能性は高いだろう。相手に先制を許してしまったからこそ、不意討ちのような形で彼女が巻き込まれることになったのだ。
「私は、あの事件をきっかけにじわじわと劣勢に立たされ、やがて法務省からの信頼を失い、比和出高検へ異動となりました。周囲の目に耐えきれず、私は辞職し、ヤメ検として弁護士の道を選びました。一方の鬼瓦は、数年後に検事総長になったのです。......今となっては、もう権力に未練はありません。しかし......」
 小早川は瞳を潤ませた。拭えぬ後悔の念が、色濃くにじんでいた。
「あの事件は私の心をいつまでも苦しめるでしょう。もしも、嵯峨君がどこかで生きているのならば、一目会って謝罪したいのです。詫びてどうにかなる問題ではないのは分かっています。それでも、彼に伝えたい。私のせいで巻き込んでしまって、本当に申し訳なかったと」
 うららは蒼白な顔をして、うなだれた小早川の姿を見ていた。長い歳月、罪の呵責が彼を苛んできたことは、見れば分かる。仮にパオフゥがこの場にいたとしても、懺悔する彼をさらになじろうとは、きっとしないだろう。
 だが、鬼瓦に対してはどうだろうか?
 うららは小早川が帰った後も、体の内側から張り裂けそうな思いを抱えながら、悩んだ。悩んで、悩み抜いて、それから決めた。この依頼は、自分が墓場まで持っていく。彼に告げることは決してするまい、と。


「おかえり」
 キッチンで夕飯の下ごしらえをしていたうららは、平静を装い、外出から戻ってきたパオフゥを背中で出迎えた。
「......あの男は?依頼内容は何だったんだ?」
 彼はソファに座るより先に尋ねた。
「うん、それがさ......奥さんがいなくなったって半泣きだったんだけど、打ち合わせ終わった直後、なんと本人から電話かかってきたらしくてねぇ」笑いながら器用に野菜を刻んでいる。「家出してただけってことが判明して、無事解決、取り下げだって。着手金貰っちゃったのに、なんかすみませんって謝っといたわ」
「......へえ、そうかい」
 うららは鍋に野菜を投入しながら、チラ、とパオフゥを見た。ビデオデッキを操作するためにしゃがみ込んでいるので、顔は見えなかった。重大な隠し事をしてしまった罪悪感で胸がちくちくする。気を紛らわせるために、彼女は鍋を木べらで熱心にかき回した。

「さ、食べよ食べよ」
 連日の暑さでバテ気味の体に、夏野菜のミネストローネの酸味がよく効いた。そして、メインディッシュのポークソテーがかすむほど、特売のエビで作ったフリッターのボリュームがすごかった。三種類のソースを好みでたっぷりと絡めれば、酒が非常に進む。
 居酒屋も良いが、宅飲みの気楽さはたまらない。風呂上がりにダボっとしたTシャツと短パンで食べて飲んで、満腹になったらオットマンを引きずってきて、足を投げ出してくつろぐ。
「あ~~~~~極楽......アレのない生活にゃもう戻れないわ」
 最近、パオフゥと折半で買った食器洗い機を、ことあるごとにうららは崇め奉った。彼が洗い物を手伝ってくれていた頃も、それはそれである種、幸せだったのだが、やはり利便性には抗いがたい。
 酔いが回り、ふわふわした気分でソファに沿って転がって、伸びをした。その腕が、ぽて、とパオフゥの腿の上に落ちる。文句を言われるかと思ったが、予想に反して彼が何も言わないので、うららは満足し、本気でウトウトし始めた。
 このまま眠ってしまったとしても、一人でまだ飲んでいる彼が歯磨きを終えた頃、いつものように、面倒くさそうに揺さぶり起こしてくれるに違いない。その後、食洗器に皿を突っ込めばいいのだ。
 トロン、とした意識で(文明の利器、サイコー)と考えていると、唐突にパオフゥが言った。
「......今調査してるターゲットだが、出張でしばらく海外へ飛ぶらしい。俺も後を追う」
「......?」すぐには理解できず、横になったまま、サングラス越しに薄目で彼を見上げる。頭を彼に向けて寝転がっているので、上下が反転した状態だ。
「数日戻らねぇと思うが、その間、事務所を頼んだぜ」
 彼はグラスを傾けて空にし、テーブルに置くと、どこか遠い所を見るような眼をした。数日間の不在は今までにもあった。だが、うららは無性に寂しくなった。鼻から抜けるように「んー」という声が出てしまったが、本当は、行かないでほしいと思った。それなのに眠たくて眠たくて、ちゃんと返事をすることができなかった。

 眠そうな素顔を隠す不格好なサングラスを、パオフゥは両手で丁寧に外した。花嫁のヴェールを上げるような、優しい手つきで。
 それから、体を折り曲げるようにして、眠りに落ちかけているうららの柔らかな吐息を間近で感じた。酔って赤らんだ頬の熱が伝わってくるような気さえする距離だった。
 アイラインを落とすと一回り以上小さく見える目と、マスカラでかなり盛らなければならない短いまつ毛。目の下にうっすらと、淡いそばかすのようなものが浮いている。知っている、ずっと隣にいたのだから。いくら恥ずかしがって隠しても、サングラスの横からは見えてしまうのだ。
 リビングの光でつやつやと輝いているピンク色のくちびるに、上下逆さまのまま、ゆっくりと口づけた。
「......ん......」
 かすかな呻き声に煽られて、もう少しだけ深く彼女を味わう。酒とタバコと、チリソース、そしてかすかに香る、清潔な香料のような匂い。
 唇を離して、うららの言葉と反応を待った。ところが、うららはねぼけている時の緩慢な動作で目をこすったり、寝息とも、寝言ともつかない小さな鼻声を時折上げたりするだけで、何が起こったのか気付いている様子はない。パオフゥは苦笑した。「えらく眠たそうだな。......邪魔して悪かったよ」
 彼は立ち上がり、籠の中のブランケットをうららの体にかけて、静かに部屋を出て行った。


 朝になって目覚めたうららは、ソファに片手をついて横座りの状態に起き上がり、しばらくのあいだぼうっとしていた。テーブルの上には皿、グラス、灰皿など、各種の器が残ったままになっている。膝に乗っているブランケットをじっと見てから、うららは肩を落とした。
「いや、そういう優しさはいいから、起こしてよ......それか、いっそ洗い物を食洗器に入れてよ......」
 ふと、ある事に気付いて血の気が引いた。
「はっ......?えっ、私、いつの間にグラサン外したの!?まさか、この顔パオに見られた?」
 ガーン、とショックを受けながら、うららはよろよろとソファを降り、洗面所へ歩いて行った。
 歯磨きをしながら思い出した。そういえば、数日戻らないと言っていたような気がする。尾行のためということだったが、どこへ行くのか聞いていなかった。うららは事務所のホワイトボードのところへ行ってみたが、予定表には何も追記されていない。仕方なくパオフゥの携帯に電話してみたものの、何度かけても留守電のガイダンスが流れてくる。
「もしもし?私だけど。アンタさぁ、出張で何日か留守にするって言った?もう。行き先ぐらい言って出なさいよ。どこなの?折り返し電話ちょうだいよ。じゃあね」
 伝言を残してみたが、どうにも不安が拭えない。
 うつむいたうららの目に、机の上に置きっぱなしになっていたチラシが飛び込んできた。ふるさと納涼夏祭り、と書かれている。......パオフゥは土曜日までに戻って来るのだろうか。


 翌日も、彼からの連絡は一切なかった。
 うららは居ても立っても居られなくなり、案件リストを引っぱり出してつぶさに調べ始めた。今抱えている依頼は五件で(うららが隠匿した依頼が一件あるため、本当は六件なのだが)、五件ともターゲットは会社員だ。
 意を決してうららは公衆電話へ走り、番号をプッシュした。コール音が響き、女性社員が電話に出た。
『お電話ありがとうございます、○×商事でございます』
「お忙しいところ申し訳ございません。秘書課の沢渡さんはいらっしゃいますか」
『失礼ですが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?』
「大隈コーポレーションの、内田と申します」
(あーあ、平然とした顔で大嘘吐いちゃって)と、他人事のように考えている自分がいた。ちなみに、社名は、火事で燃えてしまったコーポ大隈のもじり。内田は隣の部屋(つまり、出火元)に住んでいたフリーターの名前だ。幸い、相手の女性は信用してくれたようだ。
『内田様でいらっしゃいますね。大変申し訳ございません、沢渡は会議中です。終わり次第、連絡させるように致しましょうか』
「あ、それでしたら結構です。また明日、改めてお電話します」
『かしこまりました。お電話があったことをお伝えしておきます』
 電話を切り、うららは手帳にバツを付ける。このひとは社内にいた。ついでに明日もいるようだ。それでは、残る四人のうち誰かだろうか?
 ......結論から言うと、五名のターゲットは誰も海外出張になど行っていなかった。
 うららは嫌な予感がした。いや、今に始まったことではない、ずっと嫌な予感がしている。小早川文男からの依頼メールを受け取って、パオフゥが顔色を変えた、あの時からだ。
 事務所に帰ってきて、パオフゥのPCに電源を入れ、思いつく限りのパスワードを入力してみた。しかし、やはり簡単に通るものではない。疲れて休憩していると、ふいに、コツン!という音が聞こえた。あきらかに、床か窓に固いものがぶつかったような音だった。
 となりのトトロみたいに、天井からドングリでも落ちてきたのかしらん、と思いながらうろついていると、応接室のソファの足元に黒いものが落ちているのを発見した。
「......ん?なに?コレ......」
 小さな機械のようだ。サイズはちょうどタバコの箱ぐらいで、丸いスイッチと、電池蓋が付いている。そして、黒いビニールテープが二枚、べっとりとくっついている。
「ちょっと待って、コレって」
 うららは床に這いつくばって、机の裏側を見た。ビニールテープが一枚、剥がれそこなって、ブラブラと揺れていた。
「......盗聴器じゃん......?」
 急いで乾電池を抜いて、壁にかけている時計の中身と入れ替えてみた。針はちゃんと動く。つまり、つい最近取り付けられたことになる。
 こんなものを、この家の中に堂々と仕掛けることができる人間はひとりしかいない。
 いくら上手にうららが演技をしても、パオフゥはすべて知っていたのだ。彼女がひた隠そうとした秘密を。小早川文男が懺悔した過去、鬼瓦豪造がめぐらせた奸計にまつわる真実を。
 うららには分かってしまった。彼は、今まさに、最後の復讐を果たそうとしているのだ。
「ダメ!!」
 思わず大声をあげて立ち上がった。そんな復讐をしても、傷が癒えることはない......憎み続けた云豹や須藤竜蔵と対峙したとき、すでに答えは出ているはずではないか。
 止めなければ。
 うららは事務所の電話を手に取り、コールした。何度もしつこく鳴らしてみるが、やはり、出ない。また伝言を入れるしかない。聞いてくれるかどうかは分からないが、一縷の望みをかけて、うららは息を吸い込んだ。
 話し始めると、声が震えてしまった。

「もしもし。パオ?......お願いだから、帰ってきて。
 鬼瓦に復讐しようとしてるんでしょ。やめようよ。楽しくないじゃん。......アンタの心が、痛いだけじゃん。
 私と一緒に、パーッとご馳走食べて飲んで、楽しく暮らそうよ。辛い時は、支えてあげるからさ。
 重いものは、一緒に背負ってあげる。
 ......でもね。もし、それよりも復讐の方が大事って言うんだったら、私、もうアンタとは一緒にいられない。
 ここを出て、一人寂しく、恨みながら死んでやるから。
 わかる?鬼瓦と私、二人分の十字架を背負って、アンタ、たった一人で生きていくことになるんだよ。
 それが嫌なら......帰ってきな。
 私、お祭り、楽しみにしてるんだよ。
 それまでに帰ってこなかったら、絶対、許さないから。......じゃあね」

 最後の方は、ポロポロと涙を零し、しゃくり上げながら話していた。身がちぎれるほど辛くて、うららは、しゃがみ込んで泣いた。
「ひっく......うっ......ひっく......うわぁぁぁん」
 二人で暮らしていた家は、今では暗い悲しみの中に沈んで、時計の針の音だけを響かせながら、静まり返っている。数日前のぬくもりに満ちた日々が、はるか遠い昔のことのように思えた。


 うららはブランケットをかぶって、リビングダイニングのソファに横になっている。
 こうして、ここで眠っていれば、夜中に勝手口からパオフゥが「......お前なぁ、自分の部屋で寝ろよ。おとといもここで寝たじゃねぇか」と文句を言いながら入ってくるのではないか。そうしたら、うららは精いっぱいの笑顔で「馬鹿、アンタを待ってたのよ。おかえり」と返すだろう。
 あるいは、伝言を聞いたなら、連絡があるかもしれない。事務所からかけてしまったから、もしも折り返しの電話が来た時、自室にいたのではすぐに取れないので、この部屋にいる方がいいだろう。ここならば、太郎もすぐ近くにいるし、寂しくなんかない。
 そんなことを考えていると、また涙が出てきた。涙腺壊れちゃったのかな、と呟いて、うららはソファの上で寝返りを打った。







 夜が明けて、ついに土曜日が来てしまった。
 ここ数日、まともに仕事をしていない。それどころか、ターゲットの会社に偽名で電話までしてしまって、一体何をやっているんだか、という気分である。
 うららは氷入りの冷たい水で顔を洗って、気合いを入れ直すと、放置していた顧客リストの整理や、情報屋から送られて来ている目撃情報の精査などをはじめた。
 仕事をしながら考えた。場合によっては、本当に、この家を出ることになるかもしれない。
 幾多の戦いの中でさらけ出した心の醜い部分や傷を、時間をかけて癒してくれた仲間。相棒として、同居人として、かけがえのない存在。うららは、パオフゥのことをそう思っている。けれど、パオフゥがまだ痛む傷跡を抱え続け、生きるために復讐を必要としているというのならば......パオフゥにとって、うららはそういう存在ではない、ということなのだろう。それならば、これ以上自分にできることは何もない。
 黙々と打ち込んで、気がついたらもう夕方になっていた。腹が減ったが、冷凍しておいた白飯はゆうべストックが尽きてしまったし、パスタを茹でるほどの気力もなかったので、久しぶりに外食をすることにした。
 駅前の蕎麦屋に入って、冷やしかけうどんを頼んだ。店内には、祭り目当ての家族連れとカップルが何組かいた。浴衣を着た女が、おくれ毛をかきあげながら、恋人の男と幸せそうに話している。
(パオ、どこにいんのよ。約束したじゃん......)
 しばらく悲しそうにそれを見つめていたうららだったが、急に吹っ切れたように残りのうどんをかきこみ、力強い足取りで店を出た。その足で、近くの衣料品店に駆け込むと、なんと、彼女は買ったばかりの浴衣を身にまとい、下駄を履いて颯爽と出てきた。白地に控え目なブルーの二色刷りが涼やかな花火柄は、真っ赤な髪と対照的でよく映える。お教室に通っていただけあって、着付けもそれなりに様になっていた。着てきた服は紙袋に入れてもらい、腕に下げている。
「まあ、せっかく来たしね。一人でうじうじしてんの、勿体ないし。てかアイツ......戻ってきたら、問答無用でボコボコにしちゃる」
 物騒なことを口走りながら、うららは商店街へ繰り出した。


 少し早い時間だが、既に屋台が立ち並んでいる。うららのセオリーでは、「まず食べ物を物色するべし。荷物のかさばるヨーヨー釣りや射的、くじ引きなどはなるべく後」これが鉄則であった。
 先ほどうどんを食べたばかりなので、とりあえず、かき氷から着手することにした。まだ日があるため気温が高く、少し列ができていた。スプーンでつつき、シャリシャリ言わせながら歩いていると、戦隊ものの面をつけた子供たちが歓声を上げながら足元を走っていった。
 綿あめも買った。口に含めばすぐ溶けてしまうので、胃の中でかさばらないはずだと思ったのだ。......これがいけなかった。久しぶりに食べた綿あめは甘ったるく、喉がいがいがするほどだった。
 急いでフランクフルトを買い、ビールと一緒に流し込んだ。
「カーッ、これよね!やっぱ夏はビール!」
 上機嫌で飲んでいると、すれ違いざまに、男が声をかけてきた。
「いい飲みっぷりじゃん。ねー、おねえさん一人?」
 いわゆるオラオラ系のファッションをしている。ちょっとワルぶっている地元のヤンキーといったところか。
 うららは男を一瞥すると、興味無さそうにプイと顔を背けた。「ううん。人待ってんの。だからお気になさらず」
「冷たいじゃーん。急いでないならちょっと話そうよ。誰待ってんの?彼氏?来るまで一緒に遊ばない?」
 無視しているのに、男はコバエのようにしつこくついてきて鬱陶しい。しかも、うららに声をかけながらフラフラ歩いているせいで、反対側から歩いてきた子供と激しくぶつかった。
「あっ!」
 お面をかぶった、少し太めの男の子だ。弾き飛ばされて、足を擦りむいてしまった。「うう、いだいよお......うえええええええええん」
「ありゃりゃ。ボウヤ、大丈夫?かわいそうに、痛かったねえ」子供に駆け寄って、傷口についた砂を払ってやりながら、うららは男を睨んだ。「アンタ、何やってんのさ。気を付けなよ」
「俺のせいじゃねぇよぉ。そいつが勝手にぶつかってきたんだろ」
「なんて言い方すんの、大人げない」うららは気色ばんで立ち上がった。「この子に謝りなよ!」
 声を張り上げると、なんだなんだ、揉め事か、と周囲の人が遠巻きにこちらを見ながら立ち止まった。
「うわっ、めんどくさ」男は徐々に不機嫌さをあらわにして、ポケットに手を突っ込んだ。「俺悪くないのに、なんで?ガキが足元うろちょろしてるのが邪魔なんじゃん」
 責められた子供は、ますます火が付いたように激しく泣き始めた。
「ほ~ら、泣けば済むと思ってるんだ。ほんとクソガキは嫌いなんだよ、空気読まねえで騒ぐし。こういうとこ来んじゃねぇよ、バ~~カ」
 わざわざ腰を曲げて、顔を近づけて悪態をつく男に、うららはついにキレた。
 一瞬ののち、男の体は宙を舞っていた。
 慌てたように人垣が割れて、その足元のアスファルトにドサリと音を立てて男が転がる。男は鋭いボディブローを食らって声もなく失神し、全身をピクピクさせている。あたりのざわめきで我に返ったうららは、握ったままの拳を見た。
「......ヤバっ、やっちゃった」
 大泣きしていた子供も、口を大きく開けたままぽかーんと彼女を見ている。その丸い瞳と目が合うと、うららは、照れたように苦笑いした。
 祭りの警備員らしき人物が数名、ホイッスルを鳴らしながら集まってきているのが分かった。
「よし。逃~げ~ろ~!」
 うららは落とした紙袋を拾って、脱兎のごとく逃げ出した。悪魔ならともかく、人間ごときに捕まるもんかと、雑踏の中を全力で駆け抜けた。


「ふう、ここまで来りゃ大丈夫でしょ」
 商店街を抜けて、七夕川の土手まで来ていた。走ったので汗をかいてしまったが、河原を吹き抜ける風が爽やかで心地良かった。花火までは時間があるためか、人の姿はほとんどない。
 うららはついでに、さっきの男をぶん殴った時の爽快感を思い出した。パオフゥに、復讐はやめろと言ったのは自分だ。それなのに、心無い言葉で子供をいたぶる男にカッとなって、気付いたら反撃していたのだ。「やれやれ、参ったわね」人のことは言えないな、と自嘲の笑みが漏れた。
 涼しい微風に髪をそよがせながら、空を見上げた。茜色の空に、天から少しだけ夜色のカーテンが降りてきて、そこに向かってうっすらとした月が登り始めている。
 放心したように立ち尽くしていると、突然、ペルソナの共鳴を感じた。うららの心臓が大きく跳ねた。
 振り返ると、土手沿いの道の向こうから、今一番会いたいと思っていた人が息を切らしながら走ってくるではないか。
「......パオ?」
 パオフゥはすぐそばまで来て立ち止まると、膝に手を置いて首を垂れた。
「......ハァ、ハァ、ハァ、おい、うらら、テメェ......ッハァ、こんなとこに、いたのかよ、ハァ、ハァ、めちゃくちゃ探したじゃねぇかよ......ハァ」
「な、なんでここに?あと、そうだ、鬼瓦は?」
「馬っ鹿野郎......ハァ、ハァ。それどころかよ。携帯。繋がらねぇし、家、帰っても、いねぇし」
 ハァーッと深く息をついているパオフゥ。
 うららは慌てて紙袋の底をさぐり、携帯電話を取り出す。"着信 15件" の表示に、思わず、あちゃー、という顔をした。
「うわっ......ゴメン、全然気づかなかったわ」そして、謝った後で気付く。「......いや、今ごろかけてくるからでしょ!もっと早く連絡しなさいよ。よくよく考えたら、アンタが悪いんじゃないの!」
「まあ、そうとも言えるがな。......伝言、聞いたぜ」
 ようやく息が整った彼は、苦笑しながら語り始めた。
「確かに、俺が家を出たとき、頭の中にあったのは鬼瓦への復讐だけだった。ヤツの居所は調べ済みだったんで、すぐにツラは拝めた。いつ殺してやるか、機を伺いながら丸二日、張り付いてた。ヤツは退職して、嫁さんと娘夫婦と同居して、平穏な生活をしてやがったぜ。こんなクソ野郎にも家族がいるんだと思うと、なんとも言えねぇ気持ちになっちまった」
 風が吹いて、首の後ろで括られたパオフゥの長い黒髪が揺れた。
「今朝、ようやくお前の伝言を聞いたんだ。復讐なんてつまんねぇことやめて、楽しく暮らそうって。どうしてもやめねぇなら、お前を呪って死ぬぞって」
 クックッとパオフゥは笑った。
「あ、あれは......その......」うららは目を逸らした。「勢いで言っちゃったって言うか......」
「おっそろしい女だよなぁ。思わずブルって、鬼瓦なんざどうでも良くなって帰って来ちまったぜ。......お前な、言っとくがアレ犯罪だぞ。強要罪だ、強要罪」
「えっ、ちょっと、それマジで?訴えられたら負けるやつ?」
「そうだよ。俺の携帯にしっかり残してあるからな」
「やだもう、消してよ、バカ」
 面白がっているパオフゥを見て、うららは涙がじわりと滲んだのを悟られまいと笑った。復讐は終わったのだ。
 パオフゥはふいに奇妙に物柔らかな表情をして、うららをじっと見つめた。
「......ちゃんと、帰ってきたぜ。祭りにも間に合っただろ」
「......うん。ちょっと、遅刻だけどね。許したげる」
 体の横に下ろしていた肘から先を、ややためらいがちに持ち上げて、少し足を踏み変えた彼の動作を見て、うららはドキリとした。これは......この流れは、もしや。
 うららは早くなる鼓動を感じながら、ごく自然な動作で、彼の胸に体を寄せた。すると、力強い手のひらが背中を包み、そっと抱いた。......どうやら正解だったらしい。
「浴衣、なかなかいいじゃねぇか」耳元で囁く声が甘い。
「......この野暮天。浴衣じゃなくて、中身を褒めなさいよ」赤くなりながらも、うららはむくれた。
「そうだな、中身もいいぜ。馬子にも衣装って感じで......」
 うららが思わず体を離し、軽く握った拳を振り上げた瞬間、パオフゥは素早く彼女の口に唇を重ねた。「っ......ん」驚き、身をすくめる彼女を、ゆっくり、宥めるようなキスが溶かしていく。
 その時、七夕川の向こう岸で、大きな音とともに花火が上がった。閃光のように光り、パラパラという音を立てながら散っていく。
 思わず二人は至近距離のまま、顔を見合わせた。
 花火大会が始まったのかと、商店街の方から何人かやってきた。しかし、花火は一発だけで終わってしまい、次が打ちあがる気配はない。どうやら、開始時刻を間違えたらしい。
「......花火を背景に初キスだなんて、アンタにしては、まあまあじゃん」
 照れ隠しのセリフを吐きながら、うららはパオフゥの腕に腕をからめて、引っ張った。
「ほら、行こ。屋台回ろう。ビールが美味しいよ」
「......おう」
(実は初キスではないんだがなぁ)と思いながら、引かれるままに、パオフゥは歩き出した。だが、言うと彼女が怒って面倒なことになりそうなので、とりあえず、この秘密は胸に仕舞っておくことにした。



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