残滓

「......こういう時ゃ、目を閉じるもんだって学校で教わらなかったのか？」

　囁く吐息が、濡れた唇を撫でた。
　そのあまりの近さ、熱っぽさ。思わずぞくりと身を震わせたうららは、促されるままに、恐る恐る瞼を下ろす。
　ほとんど水平線に溶けた夕日の名残から彼女を隠すように、パオフゥの顔が再びゆっくりと覆い被さって、煙草の味のする二つの唇が柔らかく溶け合った。
　誰もいない浜辺に、寄せては返す波の音。潮風に靡いた長い黒髪が、ふたりの頬を撫でる。
　束の間、時が止まったような気がした。

　静かに身体を離すと、甘やかな吐息がこぼれた。とろんとした眼差しで、うららは、サングラスに映る自分の惚けた赤い顔を見た。
「............口紅。似合って、ないわよ」
　からかわれたことに対するささやかな意趣返しも兼ねた、照れ隠しの台詞に、パオフゥは薄く笑った。色づいた唇を舐め、指で拭う。

　最後の陽光を反射して、砂の上のライターが光った。パオフゥはそれを屈んで拾い上げ、軽く砂粒を払ってポケットに仕舞う。つい今しがた、彼から与えられたはじめての感触に驚いたうららが、思わず取り落としてしまったものだ。
　見かけとは不釣り合いなほど初心なその反応を、好ましいと思った。軽く一度触れるだけのつもりだったのに、欲が出て、瞳を閉じるよう唆してしまったほどに。
　パオフゥは、胸の奥で燠のように静かに、熱く燃え始めたものを感じていた。それは彼が久しく忘れていた感情だった。
　まだうっすらと淡い宵闇の中を歩き出すと、砂を踏む小さな足音が彼に続いた。なんでこんなことしたの、とも、好きだって言ってくれないの、とも問わずに黙ってついてくるうららの気配を、心地好く感じた。

　緩やかな傾斜を上り切ると、路肩に停めてあるパオフゥの車が見えた。道路を挟んだ目と鼻の先には、彼女の住まうマンションがある。
　急にうららの足取りが重くなって距離が開いたことに気付き、パオフゥは立ち止まった。振り返ると、うららは困ったように俯いた。
「どうした？」
　少しの沈黙ののち、目も合わせずにうららは言った。「送ってくれたお礼したいし、ちょっと、飲んでかない？」まるで、迷子になった子供のように頼りない声で。
「............」
　なんという拙い誘い方だろう！パオフゥは言葉を失った。今から車を運転して帰ろうという男を自宅に招いて飲酒を勧めるとは、愚直にもほどがあるが、つまり、同衾の誘いということになる。もっと気の利いた言い回しがいくらでもあるだろうに......と思ったが、緊張してこちらの顔も見ることができない様子の彼女を見ると、茶化す気にもならない。指の関節が白くなるほど固く手を握りしめ、必死に心を奮い立たせて、言葉を絞り出したのに違いなかった。
「......天野もいるのか」聞く前から答えは予想できたが、一応、形式的に聞いてみると、うららは弾かれたように顔を上げた。
「え、えっと、その......残念だけど、マーヤはいないのよね、今日は。締め切り前で......いつもの、泊まり込みなんだ」声がどんどん小さくなっていく。
　再び沈黙が二人の間に流れた。
「......ふぅん。なら、落ち着いて飲めそうだな。お招きに預かるとするか？」
　うららは瞠目し、自らで口火を切ったくせに、"信じられない"、という顔をした。
（何なんだろうな、この妙な茶番は......）苦い笑いがパオフゥの口元に浮かんだ。しかし、面と向かって"泊まっていかない？"と言われたとしたら、自分は素直に応じることはできないだろう。うららはそれを無意識に理解しているのかもしれない、と思った。

　マンションの階を上り、うららが鍵を開けている間、ずっと、過去に彼女の上を通り過ぎていった男たちのことを考えていた。
　いつか、酔った勢いで、彼らのことを愚痴っていたうらら。
『そりゃあ今まで付き合ってきたのはダメなヤツばっかりだったけどさ......』
『どうせ私なんかさぁ、金目的か、さもなきゃ体目的の男ぐらいしか寄ってきませんよぅ～』
　いざという時にはあんなに奥手で不器用になってしまうくせに、どうやってそいつらと寝たのだろうか。男の方から下心丸出しのアプローチをかけて？それとも、彼女が恥じらいながら誘って？
「いつも以上に散らかってるから、足元気をつけて」
　うららがドアを開けて待っている。パオフゥは無言で部屋に踏み込んだ。
　舞耶の部屋は平常時の五倍は散らかっていて、まさに足の踏み場がない状況だった。ポーチ、丸めたティッシュ、ダンボール箱、タオル、湿布のパッケージ、いつもであれば壁際に（形ばかり）寄せてある書籍類など......あらゆるものが、床やベッドの上に好き放題に投げ散らかされていた。洗ってあるのか、それとも着用済みのものなのか、判別の付かない服があちこちで渦を巻いているし、菓子のゴミなどでパンパンになったコンビニのレジ袋がいくつも点在している。驚くべきことに、まだ汁の入ったおでん容器を包んだままの袋すら見受けられた。
　閉口してこの惨状を眺めるパオフゥの頭の中に浮かんできたのは、しかしながら、家庭的なことに一切無頓着なこの部屋の住人、天野舞耶のことではなかった。
　その舞耶に向けて得意気に語っていた、いけ好かない結婚詐欺師・牧村の、取り澄ました顔だ。

『僕はもう驚かないよ。君は知らないと思うけど、うららに誘われて、ここには何度か来てるんだ』

　聞くともなしに聞いていたその言葉に、あの時は、"ちゃんと恋人のフリしてやるこたやってた訳だ"という程度の感想しか湧かなかった。
　だが、今は。
「そこ、座ってて」うららは部屋の中に彼を招き入れ、ソファを勧めた。その上着を受け取ってコート掛けに吊るすと、キッチンの方へ向かいながら振り返った。「ねぇ。何飲む？と言ってもスコッチと吟醸、あと缶のカクテルぐらいしかないけど」
「......別に何でも構わねぇよ」
　意図せず、心の内を反映して随分棘のある声色になってしまった。うららは気付かないまま、そう？わかった、と呟きながら行ってしまった。
　深く息をつき、ソファの肘掛けに腕を凭せ掛けて、主のいない部屋を見回す。
　舞耶のそれとは大きく異なり、綺麗に片付いた居心地の良い空間だ。白・黒・赤を基調にしたミッドセンチュリー調の家具やベッドに、緑や辛子色といった指し色の大きなクッションがよく合っている。本や小物が飾られたラウンドシェルフをバランスよく配した壁の上で、凝ったデザインの掛け時計が時を刻んでいる。
　明らかに見た目重視であって全く機能的ではない、小さなライティングデスクの上に、最近買い換えたというノートパソコンが畳んで置かれていた。うららに相談されて、お前みたいなトーシロが買うならこのシリーズが妥当なんじゃねぇか、とパオフゥが勧めたPCブランドのものだ。そのすぐ傍に、インターネットやソフトウェア関連の教本が何冊か、二本脚で立つ黒猫のシルエットを象ったブックエンドに挟まれて立っていた。チェアの背には、薄手のカーディガンが掛かっている。
　そういった色々なものを観察しているうちに、この部屋で生活しているうららのイメージ......風呂上がりの僅かにしどけない姿や、クロゼットの前で服を選んでいる下着姿までも......が頭の中にちらついてしまい、パオフゥは狼狽えて視線を床に落とした。
　すると、見るという行為をやめた途端に、今まで大人しくしていたはずの嗅覚が働き出した。感じるか感じないかのギリギリを掠める程度に、ほのかに香る甘い匂い。
　さだめしヤニ臭いのだろうと思っていたので多少意外ではあったが、これだけ内装にこだわった清潔な部屋だ。黄ばみや臭いを付けるまいと気を使っているのだろう。彼女の性格からして、さもありなん、といった感じだ。
　納得すると同時に、女の部屋にいる、ということを改めて意識してしまい、ますます落ち着かない気持ちになってきた。

　パオフゥがむず痒そうな顔をして、しきりに鼻を擦っているところへ、うららが盆を持って戻ってきた。
「お待たせ」
　氷の入ったロックグラス、スコッチウイスキーの瓶、それにつまみを盛り付けた皿をテーブルに置くと、彼の隣に座る。
「......わざわざ作ってきたのか？酒だけで良かったのによ」
「ダメよぅ。飲むときは一緒になんか食べないと健康に悪いって、テレビで言ってたんだから」
　グラスに酒を満たしてパオフゥの前に置いた後、続けて自分のグラスに注ごうとするので、さっと奪い取る。「チッ......おい、女が手酌するなっていつも言ってるだろうが」
「いいじゃん、一度にまとめてやれば手間が省けるっしょ。固いこと言っちゃってオッサン臭いんだから。......ん、ありがと」
　しかめっ面のパオフゥから酌を受けながら、うららは嬉しそうな顔をしている。こんな形でも、女扱いされて密かに喜んでいるのだ。まったく、単純でどうしようもない莫迦だ、と思った。

　乾杯もなく、二人は静かに酌み交わした。
　クリームチーズを巻いた生ハムと、塩茹でのグリーンピースをあてに、ゆるゆると飲む。どちらも、いつもに比べて言葉少なだった。そして、そのことが、いつもより互いの存在を近くに感じさせた。
「......あのさ。アンタの初恋っていつだった？」
　組んだ脚に肘を乗せ、頬杖をついたうららが問う。
「あ？何だそりゃ」
「何って初恋よ。ファーストラブ。パオにもそういう甘酸っぱい思い出とかあるのかな～って思ってさ」
「そんな愚にもつかねぇこと、いちいち覚えちゃいねぇよ......」
　下らない戯言に付き合う気はない、とばかりに、つっけんどんに返したパオフゥだったが、グラスを手の中で弄びながら、思い直したように続けた。「......そういうお前はどうなんだ？」
「私？私はねぇ、小三の時かな。担任の先生にときめいちゃってたのよねぇ」
　スコッチをちびりちびりと舐めながら、遠い目で語るうらら。
「声が渋くて、背が高くて、優しい感じのひとだったわねぇ。気を引きたくてさ、持ち物を隠したり、出席簿を持って逃げ回ったりして。子供っぽい悪戯してたわ」
「ヘッ。ませた悪ガキのお守りはさぞ大変だったろうな」
「うるさいわねぇ。......ま、その先生は家庭の事情があって、途中で転勤していっちゃったんだけどね。それからは、同じ学校の先輩とか、近所の美容室のお兄さんとか、色々な人に恋をしたけど、ようやく初めてカレシっぽいもんができたのは高校生の時。相手は大学生だった」
　突如、話がおかしな方向へ転がり始めた。何の気なしに聞いていたパオフゥは、思わずギョッとしてうららを振り向いた。グラスを揺らしながら、穏やかに微笑んでいる。
「意外と遅いでしょう。ビックリした？」
「......」
「まあ、正式に付き合ってたわけじゃないのよ。向こうが本気じゃないのは分かってたけど、憧れの人だったからね。火遊びでも構わない、って悲壮な決意しちゃってさ。学校サボって、色んなところに付いて行ったし、煙草もその人から教わった。毎日が刺激的だった。でも、羽目を外しすぎちゃって、ついには留年しちゃってさぁ。親にも先生にもこっぴどく叱られて、もうあんな悪い奴とは会うなって言われて......それっきり。儚いもんだったわ」
　うららは生ハムを少し齧って、薄まったスコッチをぐびりと呷り、ふぅと息をつく。
「......次の男は、短大通い始めて勤めてたバイト先で知り合った同僚でさ。何回か話した程度の仲だったのに、急に好きだって言われて......告白されたの初めてだったから、びっくりした。ちょっと考えさせて、って時間もらって。家に帰って考えてる間、じわじわ嬉しくなってきてさぁ。それで次の日、オッケーって返事したんだ。そんで、付き合い始めてしばらくは楽しかったんだけどさ、なんか、遊びに行っても、食べに行っても、どこに行っても私がお金払ってる気がするわけよ。段々"あれ？おかしいな"って思い始めて......話を切り出そうか悩んでるうちに音信不通になって、あっけなく終わり。まあ、いい金づるにされちゃってたわけね」
　パオフゥは怖いくらい真剣な目で、昔語りをする横顔を見ていた。
「そんでさ、ヘコんでる時に優しくしてくれたのが、合コンで出会った男だったのね。すぐに付き合うことになったんだけど、コイツがとんでもない女たらしでさ、後で聞いた話だと六股ぐらいかけてたっていうのよ。......ホント、つくづく私って馬鹿だよねぇ。男なんてもう懲り懲り！って思ってたはずなのに、ご存じの通り、その後、牧村にもコロッといっちゃったんだからさ」
「......何故、急にそんな話を？」
「......自己紹介、かな」自嘲するような笑みを浮かべて、うららは肩をすくめる。「アンタの過去は知っちゃってるのに、私だけ言わないのも、なんか卑怯だなって......ずっと思ってたしさ。......呆れたでしょ？」
　こんな夜に、好いた相手を前にしてわざわざ懺悔する必要もあるまいに。不器用にも程がある。パオフゥは黙って、一気にグラスの残りを干した。

　うららは目を伏せて、断罪を待つ人のようにパオフゥが何か言うのを待っていた。
　だが、与えられたのは言葉ではなかった。
　彼の腕がソファの背に回され、氷で冷えた唇が押し付けられる。下唇を、ちゅ、ちゅ、と軽く何度も吸われ、思わず、甘えるような声が鼻から抜けた。
「んっ............ん......ふ、......あ」
　唇の内側を何度もなぞる動きに誘われて、おずおずと舌を差し出すと、すぐに絡め取られた。食むように挟み、優しく吸い上げては離れ、再び覆う。互いの唇と舌が、触れ合うたびに小さな音を立てて、否が応にも性感を高めていく。
　頬を赤く染めて、ソファと彼の腕に体を預けているうらら。その切なげな表情を見ながら、パオフゥの胸は軋んだ。

　これを見た男は、俺が初めてではない。
　そして、そいつらは、この女を本気で愛してなどいなかったのだ......。

　やり場のない怒り、激しい嫉妬、うららを不憫に思う気持ち。それらのものが綯い交ぜとなってパオフゥを苛んだ。彼女の身体を強く掻き抱くと、その手が回され、パオフゥのシャツの背を辿った。縋るように、あるいは、確かめるように。
　抱擁しながら、トップスの裾にあしらわれたレースの下に手を挿し入れた。
　脇腹を撫で上げ、下着の中に指を滑り込ませて、素肌に直に触れた。簡単に掌に収まる柔らかい肉を、そっと掬って揺するようにして感触を確かめる。
「あ......ご、ゴメンね。......その、見た目より、小さいっしょ」
　申し訳なさそうなうららの苦笑が、パオフゥの癇に障った。
　今までの男たちにも、同じ台詞で謝ってきたのか？奴らは一体、何と答えたのか？

　――そんなことない。可愛いよ。
　――俺は全然気にならないよ。ありのままの君が好きだから。

　虫唾が走る。
　苛立ちを抑えながら、服の裾を掴み、大きく捲り上げた。
「あっ......」
　下着の中から引きずり出され、零れ落ちた乳房を、身を縮こまらせて腕で隠そうとするうらら。パオフゥはお構いなしに両手でその小さな丸みを掴み、揉みしだいた。微かな痛みに戸惑いながらも、うららは時折わずかに呻くだけで、あとは彼のするままに身を任せている。
　ほんのちょっとした膨らみでしかなかった薄いセピア色の乳首は、パオフゥの指先に摘ままれ、撫でさすられるにつれ、固く勃ち上がっていく。さらに、舌先で擽られ、吸い上げられ、甘噛みをされるうちに、色付いた吐息が漏れ始めた。
　肌蹴た服が胸の上で波打ち、舌の這いずり回った跡が蛍光灯の下でてらてらと光っている。いやらしく、蠱惑的な眺めだった。
「............」

　急に手を止めた彼を、ぼうっとした顔でうららは見つめた。
「......そう言やぁ......ゴムを持ってねぇんだが」陰鬱な表情の中で、サングラスの奥の瞳が妙にギラついている。「お前、持ってるか？」
　うららは、心臓が不穏な感じに脈打ったのを自覚した。
　少し躊躇い、だが、パオフゥの全てを見透かすような強い眼差しを見ると、観念したように、小さな声で「......持ってる」と返した。
「いつのだよ？」
「......三年ぐらい前」
　時期からして、牧村が使ったのに間違いなかった。その残りを未だに持っているだと？パオフゥは頭にカッと血が上るのを感じた。だが、それを爆発させない程度の理性は残っていた。
「へぇ、そうかい。......ここで使ったのかよ？」
　二人の下になっているソファを指し示しながら、パオフゥはゆっくりと訊いた。うららは眉を寄せ、怯えを滲ませながら首を振った。
　部屋の隅に置かれたベッドをちらりと見遣る。気取った作り笑いを浮かべたあの下衆な男と、幸せそうに微笑むうららが、その上で睦み合う姿が鮮明に思い浮かんで、反吐が出そうだった。

　それ以上の問いが、発せられることはなかった。

　パオフゥはサングラスを取ってテーブルに放ると、うららの肩を押してソファへ倒し、ほとんど咬み付くようにして、あらわな胸や鎖骨を繰り返しきつく吸った。鈍い痛みに苦悶の表情を浮かべながらも、うららは抵抗しようとはせず、声も上げなかった。
　腹部から手を差し入れ、下着の中を探って、直に秘部に触れた。うららはびくり、と大きく身震いをした。
　当初の優しさは消え失せ、荒々しさに取って代わっていた。
　愛撫と呼ぶには些か乱暴な動作で、遠慮会釈なく秘裂の中に割り入った指が、慎ましやかにその奥に隠された肉芽を強く擦り、思わず悲鳴を上げた。
「あんっ......！や、......あ......」
　押しとどめようとする手を払って彼女のスカートを下着ごと引き下げ、激情に任せて、既に濡れそぼったそこを嬲った。「あっ、あ、あぁ......！」体内を長い指で掻き混ぜられ、うららは喘いだ。
「......荒っぽくされる方が好きなのか？いい声出すじゃねぇか」
　奥の敏感な場所を執拗に攻められて身を捩っていると、ソファの上で身体を転がしてうつ伏せにされた。
「四つん這いになりな」
　冷たく甘い声が命じる。中途半端に脱がされた服が胸の上と足元に蟠り、胸から膝の下まで裸に剥かれたその状態で、尻を突き出せと強要されているのだ。耳まで真っ赤になりながら、うららは肩越しに懇願するような目でパオフゥを見る。だが彼の表情は全く揺らがなかった。
　のろのろと、言いつけに従った。腰を持ち上げると、溢れ出たぬめりが糸を引いてソファの上に垂れ落ちるのが分かり、恥ずかしさに顔から火が出そうだった。
「上出来だ」
　パオフゥはテーブルの上のグラスを手に取り、溶けて小片となった氷を口に含んだ。
　部屋の明かりの下に曝け出された、熱く潤むその場所を指で押し開き、反応が返るや否や、氷と一緒に冷たい舌をこじ入れた。うららは背を撓らせてびくびくと戦慄いた。
「あぁっ！はぁ、あぁん......」
　あられもなく身悶えるその扇情的な姿に、言い知れぬ興奮を覚えながらも、苦悩はさらに強く、彼の心を翳らせた。
　こうして虐げるように攻められたこともあるのだろうか？
　どんな風に抱かれて、どんな啼き声を上げたのか......。

　背後から圧し掛かってきたパオフゥが首筋を強く吸う。うららはソファの肘掛けに頭を押し付けて、また喘いだ。彼の黒髪が、逃がさないとばかりに、汗ばんだ首元に纏わりついた。折り重なるように密着する体。
　うららは、腿の間に入り込んできた、ぬるつく熱いものの存在を感じた。
「......あ......」
　ズボンから解放された彼の昂ぶりが押しつけられている。ぞわぞわと背筋の産毛が逆立った。
　背後から抱き締められると、丁度、花芯に沿う形でぴったりとそれが触れ合った。前後に動く度にぬるぬると擦られてめくれ上がるような、その淫らな感触に、ぎこちない溜め息が漏れる。やがて、質量を持った塊が彼女の中に分け入ってきた。内壁を掻き分けて侵入してくる感覚に、うららの身体は火照った。
　硬く滾りきったものに内側から押し開かれる。隔てる膜もなく、直に。
　先ほどの、コンドームにまつわる短い問答を思い出す。あのひとくさりを経て、パオフゥの機嫌が悪くなったことは明白だった。
（......妬いて、くれたのかな......）
　ぼんやりと思う。だが、抽送の動きが始まると、すぐに何も考えられなくなった。

「ぅん......ん......ん、んっ、う、あぁ......」
　穿つようにゆっくりと突き上げ、引き抜かれ、また捩じ込まれる度に、むずかる赤子のような声を漏らして、浅い呼吸を繰り返す。
　ヘアゴムやピンはいつの間にか全て外れ落ちてしまっていて、彼女が頭を振ると、乱れた髪が踊った。背中を舐め回しながら、揺れる乳房を弄び、グリグリと乱暴に腰を押し付ける。
「ああぅ、や、パオ、そこ......」
「......えらく気持ち良さそうじゃねぇか。......ここかよ？」
「ああっ、んっ、あ、あああぁっ！！」
　思い切り深く突いて責め立てると、随喜の叫びが上がった。温かく湿った狭い部屋の、内部に蠢く無数の襞が、仕返しとばかりにキュウキュウと締め付けてくる。秘唇が切なげにひくつき、彼女がオーガズムに達したことが、一つに繋がった肉体を通じて伝わってきた。うららはギュッと目を瞑り、頬を上気させて息を切らしている。
　......が、その余韻に浸る間もなく、膣の痙攣によって与えられる甘美な愉悦に耐えかねて、パオフゥは再び動き始めた。今度は、より激しく。
　絶頂を迎えて敏感になった粘膜に、容赦なく剛直が擦り付けられた。
「あ、あ、あ、やだ、やぁぁ」
　抗うようにもがく両腕を、ひとまとめにして片手で抱き込むように押さえつけ、縛めた。ほとんど脱がされた彼女を、着衣のままの自分が組み伏せてまぐわっているという状況が、エロティシズムをかき立ててたまらない。
　グチュグチュと音を立てて最奥を突きながら、空いている方の手で、充血した陰核を爪弾くように触れる。そうすると、まるで本当に楽器のようにうららは鳴いた。
「あっ、ああっ！はぁ、あぁ、ああぁ！」
　絶え間なくパオフゥを押し流そうとするさざ波のようなうねりが徐々に大きくなり、嵐の中の小舟のように翻弄される。
「う......く......」耳朶を舐るようにして、色を含んだ掠れ声で囁く。「......うらら......」

　彼にそう呼ばれたのは初めてだ。

　瞬間、身体が打ち震え、子宮のあたりが引き絞られるようにキュッと疼いた。
「あっ、あ！も、ダメ、ああああぁ――ああぁ、んんっ――」
「うっ！ぐ......あ、ああっ！はぁっ......」
　感極まったような声で乱れるうららから、焼けた鉄杭を引き抜いた途端、勢いよく精が放たれた。断続的に吹き出し続ける大量の濃い液体が、彼女の腰から腿にかけての円やかなラインをどろりと汚していく。
　小さな呻きを漏らしつつ、ふらつくように体を横たえて、汗で濡れた白い腹部を力なく上下させているうらら。それを見ながら、パオフゥもまた、ソファに膝をついて肩で息をしていた。

　部屋には情交のあとの生々しいにおいが立ち込めて、さっきまで漂っていた、あの微かな芳香を感じることはできなかった。
　吐精を終えて一気にクリアになった思考が、彼を自己嫌悪のどん底に叩き落とした。目の前にちらつく過去の影に惑わされ、無意味な焦燥感に駆られて、思い遣りに欠けた行為に及んでしまったことを後悔した。
　彼女を大切に思えばこそ、今日、最後までするべきではなかったのだ。
　無言のまま、箱からティッシュペーパーを何枚か引き抜いて、うららの体をぬぐった。ついでにソファに付着したものも軽く拭き取ったが、毛羽立つばかりで簡単には落ちず、染みになりそうだった。
「......ありがと......」恥ずかしそうに着衣の乱れを整えながら、うららははにかんだように微笑んだ。
「......いや。汚しちまったな。すまねぇ」
「ううん。......ね、ここ来てよ」
　うららはソファの背もたれ側に詰めてスペースを空けると、座面を軽く叩いた。それから、彼に向かって腕を広げた。パオフゥは少し躊躇したが、後ろめたさも手伝って、その求めに応じた。狭いソファの上で、彼女の横に体を詰め込むようにして横になり、全身を密着させる形で抱きしめる。
　頬を擦り寄せてくる仕草、少し高い体温に、愛しさが募り、胸の痛みはなおのこと増すばかりだった。

　どのくらいの時間、そうしていただろうか。
　疲れ果てたうららは彼の腕の中でウトウトしはじめ、じきに静かな寝息を立て始めた。安らかなその寝顔を眺めながら、口元にかかった髪を指で払ってやる。パオフゥも眠気を感じてはいたが、ここで夜を明かすつもりはなかった。
　彼はうららを抱えてベッドへ運び、そっと布団をかけてやると、音を立てないように部屋を出た。キーボックスから拝借した鍵で施錠し、そのまま郵便受けに投げ込んでおいた。
　静まり返った薄暗闇の海岸通りを、懊悩に俯いた男の影が横切る。夜明けまでは、まだ遠かった。

『今日は終日外出する。お前も急ぎの仕事が無けりゃ、来なくていいぞ』
　なんとなく彼女と顔を合わせづらくて、簡素なメールを送った。
　コーヒーを飲みながら新聞を読んでいると、十数分後にレスポンスが返ってきた。

『分かった。じゃあ、休ませてもらうね』

　パオフゥが送ったものよりさらに短いメールだった。内容から、うららの感情を読み取ることはできない。
　何も言わずに去ってしまった彼を怒っているか。郵便受けの鍵には気付いたのか。痛むところはないか。知りたいことはいくつかあったが、改まって聞くのも憚られる。パオフゥは眉を段違いにして頭を掻いた。
　携帯電話をズボンのポケットに突っ込み、ふぅ、と煙草の煙を吐き出した。
　外出する、というのは口実でしかなかったのだが、宣言したことで実行する気になった。パオフゥは煙草を消してジャケットを羽織り、自宅を後にした。

　夢崎センター街の裏手を流れる用水路の橋の下、そこに彼の探す人物がいた。
「......よぉ、久しぶりだな」
　道路わきのフェンスから身を乗り出し、暗がりに向かって声をかけると、粗末なビニールシートを被って横になっていた柔和な顔の老人が身を起こした。
「やあ、どうしたんだい？いつもみたいにトニー宛に電話くれたらいいのに、わざわざ直接会いに来るとは。何か厄介ごとでもあったのかな」
「そういうわけじゃあねぇが、折り入って相談があってな。ちぃと付き合って貰えるかい、トクさんよ」

　パオフゥは彼を近くのバーへ案内した。穴倉めいた店構えは、隠れ家といった感じで落ち着ける空間を演出している。
「いい店だねえ。いやぁ、昼間っからこんなところで飲むなんて、なんとも背徳的だね」
　トクさんはニコニコと店内を見回している。「こんな雰囲気のある店なら、僕みたいなのと仕事の話をするよりも、可愛い彼女と一緒に来る方が似合うんじゃないかな」
「彼女だぁ？......へっ、そんな物ぁいねぇよ」
　やがてバーテンがカクテルを配り、二人は一頻り仕事の話をした。
　人捜しを始めてだいぶ経つが、パオフゥは度々彼の世話になっている。この業界で必要になるのは、自分の力だけではない。情報ネットワーク、つまり他者の助力なしには成し遂げられない任務も多々あるという事実を、この仕事を通してパオフゥは実感していた。
「あすこの興信所はねえ、確かに評判悪いね。手数料水増しとか、下請けに横流ししてピンハネとか、結構やってるって噂だよ」
「へえ。それが事実かどうか知らねぇが、火のない所に煙は立たねぇって言うしな。悪徳業者が噂になって自滅するのはウチとしては歓迎だぜ。ライバルは少ないに越したこたぁねぇからな」
「付き合いのある情報屋が手を切りたがってるから、君のとこ紹介しておこうか」
「それだよ」パオフゥは膝を叩き、カウンターテーブルの上に片肘を乗せて身を乗り出した。「俺が今日来た理由はそれだ。もっと情報網を広げたいと思ってな、アンタのつてに期待してるのさ」
「なるほど、早速お役に立てそうだねえ」トクさんは茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせた。

　話しているうちに、何人かの客がやってきた。裏通りの目立たない店、しかも真昼間だというのに、そこそこの繁盛ぶりだ。
　カクテルを五杯も飲んで、リゾットにスパゲティ、デザートのケーキまで綺麗に平らげたトクさんが、腹をさすりながら言った。
「ときに、君と一緒に働いてるあの子。ほら、赤い髪の。名前何て言ったかな」
「芹沢か？」
「そうそう、芹沢さん。今日は彼女一緒じゃないの？」
「......今日は体調悪くしててな。休ませてる」
　パオフゥはグラスに目を落とし、ライムがほんのり薫るギムレットを呷った。
「おや、そうなの。それは心配だねぇ。大事にしてあげなきゃだめだよ」
「だ、大事にってなぁ。あいつは別に俺の......」
　言い募るパオフゥの肩をポンポンと叩いて、トクさんは立ち上がった。「それじゃ、御馳走様。美味しいご飯とお酒をありがとうね」
　パオフゥは、カランとドアベルを鳴らして去っていく後ろ姿を見送った。
「......ったくよ」
　あの老人の慧眼には、色々な物がはっきりと見えているのかもしれない、と思う。ふぅっと息を吐き出して、ばつの悪さを誤魔化すように、パオフゥはまた、グラスに口をつけた。

　少しの間、物思いに耽っていると、柔らかい声がかけられた。
「......恋の悩みって、甘くてほろ苦くて、何だかお酒に似てますよネ？」
　パオフゥは声のした方向を見た。ダークグレーのホルターネックワンピースが似合う、短い黒髪の女が、二つ離れた席に座っている。どことなく見覚えのある顔だが、誰だったろうか。
「私ネ、仕事柄、いろんな人の恋のため息を見てきたんですよ。あなたのは......迷っているというよりは、ただただ辛い。そんな感じのため息に聞こえましたわ」
「......何だ？辻占いならお断りだぜ。他を当たってくんな」
　鬱陶しげに顔を背ける。女性は口元に手を当てて、ウフフ、と大人っぽく笑った。
「ああ、いえいえ。占い師じゃないんですよ。バーテンをやってたんですけど、珠閒瑠浮上事件でお店がダメになっちゃって。再出発するために色々準備中なんです。それで、修行も兼ねて人気店で飲み歩いてまして」
「へえ、そうかい」パオフゥは興味なさそうに頬杖をついた。「アンタはバーテン修行のために、悩める行きずりの男をつかまえて、その頭ン中をステアしてみようって寸法なわけだ」
「あら、面白いこと仰る方。でも、悩んでいるのは認めるんですネ」
　してやったりと言わんばかりの、歌うような口調に、パオフゥは内心で舌打ちをした。
「人生はカクテルみたいなもの。人間そのものも、また然りです。キレイなもの、汚いもの、色々なものが交じり合ってこそ味わい深くなる。......これ、私の持論なんですけど」細いストローでスプモーニをくるくると混ぜながら、女は言った。「過去の過ちも、流した涙も、すべてカクテルを完成させるための大切なレシピですわ」
　しばしの間、パオフゥはグラスを手に考え込んでいた。そして、女に顔を向けると、その切れ長の目をじっと見返した。
「アンタのとっておきのカクテルに、泥を混ぜた奴がいたら、どうする？」
　女は微笑みを崩さず、こう言った。
「そうですネ。取るべき行動は二つしかありません。シンクに流してしまうか......飲み干すか」肩をすくめ、おどけたように首を傾げてみせる。「もっとも、貴方は既にどうするか決めているみたいですけど」
「......ヘッ。やっぱりアンタ、占い師の方が向いてるんじゃねぇか？」
　パオフゥは苦笑いしてグラスを傾けた。強い酒が、心地良く酔わせてくれた。

　ドアホンを鳴らすと、少しの沈黙ののち、うららの声が聞こえた。
『......パオ？』
「ああ、俺だ。ちょいと開けてくんねぇか」
　パタパタと軽い音がして、ドアが開いた。パジャマの上にぶかぶかのスタジャンを羽織って、髪を下ろしたうららが顔を覗かせる。
　ちらりと奥を見たが、舞耶の部屋は電気が消えている。どうやら、今日も出版社に缶詰めで不在のようだ。
「......ど、どしたの、こんな時間に？なんか忘れ物した？」
「いや、そういう訳じゃねぇ」
「何か......用？」ドアの隙間から、戸惑ったように問いかける。
「今日は上げちゃくんねぇのか？」
　パオフゥが珍しく優しげに笑うので、うららは頬を赤らめた。いいけど、と呟いて彼をドアの中に入れる。
　うららが鍵を閉め終わって振り返るのと同時に、パオフゥの手が強くその体を抱いた。
「ぎゃ......ちょ、ちょっと、パオ、なに、急に、こ、こんなとこで」
　背中や腰を這い回る手に、うららの体温は逆上せそうなほど急上昇し、心拍数は跳ね上がった。......だが、彼女の危惧するような展開は訪れなかった。パオフゥは腕一杯に抱きしめた体の感触を確かめているだけであり、この場でコトに及ぼうというわけではないようだった。
「あ......」
　その穏やかな触れ方に、うららの動悸は少しずつ落ち着きを取り戻していき、心がじんわりと温かくなるのを感じた。腕の中から見上げると、微かにアルコールの香りのする吐息が降ってきて、包み込むように、味わうように、彼女の唇に触れた。
　胸がいっぱいになり、思わず涙が零れる。パオフゥは泣きぼくろにそっと唇を寄せ、その頬を指で拭った。

　考えてみれば、昨日、夕暮れの恵比寿海岸で彼に初めて口付けをされてから、一度も愛の言葉はない。
　だが、言葉を介さなくとも、うららにはもうはっきりと伝わっていた。彼の想いが。

　体を離し、パオフゥは彼女の顔を覗き込んだ。
「昨夜は帰っちまって悪かったな。何て言うか......色々あったんだよ、葛藤が」
「うん、わかってる」
　うららは微笑んだ。しかし、表情が暗くなる。
「......でもさ。朝になって私が目ぇ覚ます前に、マーヤが一度帰ってきたみたいなんだよね。アンタがポストに鍵なんか入れて行くから、"パオフゥ、来てたのね？ウフフフ"......ってメールが」
「......あの天然ボケな天野も、一応気付くんだな。そういうとこは」と、引きつった顔のパオフゥ。
「おかげで今日一日、憂鬱でしょうがなかったわよぅ。後でマーヤに滅茶苦茶にいじられて、からかわれて、弄ばれちゃうんだわ！ああぁ～なんて悲劇......」
「まぁ、アレだ。俺はお前の体が心配だったけどよ......そっちの方は無事そうで何よりだ」
　うららは目をしばたたかせると、照れ臭そうに視線を逸らした。
「あぁ、うん......私も意外だったんだけど、何ともなかったね」
「......意外？どういう意味だ？」パオフゥは怪訝そうな顔をした。
「え？それは、えっと......」
　言い淀みながら、うららはぼそぼそと言った。
「あのさ、私、アレをすると......昔から、痛くて仕方なかったんだよね。性交痛ってやつ？だから、その、アレ......せ、セックスって苦手でさ。あんま、好きじゃなくて。でも......昨日は......」
　首筋まで赤くなっているうらら。
　パオフゥは固唾を飲んでその言葉の先を待った。
「昨日は......？」
「............い、言わない」
　完全にそっぽを向くうららに、ハァッとため息をついて、パオフゥは顔を近付けた。
「あぁ、そうかよ。そういう風に隠すんだったら俺にも考えがあるぜ」悪そうな笑みを浮かべて、うららの耳元に囁きかける。「俺としてる時、どういう風に感じてるのか、痛いのか、キモチイイのか......じっくり観察させて貰うとするからよ。今日は、ちゃんとそのための準備もしてきたんだ」
　可哀想なほど真っ赤になった顔の前に、コンビニで買ってきたパック入りのコンドームを出してみせる。
「......古いのは捨てろよな」
　不機嫌そうな声色に、うららは少し微笑んで答えた。
「......もう捨てたわ」

　かくして、二つのカクテルはロマンティックな夜に包まれて再びシェイクされることとなった。
　バーテンダーの腕前がどうだったか？
　それを知っているのは、ただ、甘くとろけた彼女と、カーテンの隙間から覗いていた三日月だけだった。