光と影の国にて
" チャーオ、親愛なるマーヤ!
私は今、台湾でこの手紙を書いてます。
まぁ、メールか電話すれば早いんだけどさ。でもせっかく海外にきてるんだもんねぇ。記念のエアメール、出しておきたいじゃん?
そもそも、なんで台湾に来ることになったのか、急だったから説明せずに出ちゃってゴメンねぇ。
あんまり詳しく言えないから、かいつまんで説明すると、婚約者がなかなか海外出張から戻ってこなくて浮気を疑った依頼主がウチに駆け込んできた......ってわけ。それでパオが海外調査に行くことになったのね。
この話を受けた時、あんまり鋭いってわけじゃない私でも気付いてしまうぐらい、パオは暗い目をしてた。
平気なわけないよね。台湾はアイツにとって特別な場所だもん。壮絶な過去を置いてきた場所。きっと行ったら、昔のことを思い出して一人で苦しむに決まってる。そんなの、放っておけないわよ。
だから言ったの、私も連れてけ!って。
『出張費は一人分しか出ないし、事務所はどうするのか』
って聞き返されて、思わず
『台湾に個人的に用事があるだけだから、有休取るし、旅費は自分で出す。事務所宛の電話やメールは私の携帯に転送すればいい』
なーんて大見得切っちゃったのよね。
で、渋るパオを押し切ってムリヤリ付いてきたんだけど。
......付き合ってないどころか脈すらなさそうな相手のために、ここまでやるかねぇ?
旅費だけじゃなく、ケータイの海外サービスも申し込まなきゃいけなかったし、他にもいろいろ、結構な出費でねー。自分で言いだしたこととはいえ、トホホだわ。直接ではなくても、これって貢いでるってことになっちゃうのかなぁ?本当はパオの事を思って......なんてことがバレたら、ゼッタイ『重い』って引かれちゃうよねぇ。ハァ~。
まあ、とりあえず、パスポートだけは持ってたのが幸いだったわ。高校ン時に家族旅行でハワイに行ったっきり無駄になるかと思ったけど、まさか、こんな時に役に立つとはねぇ。 念のため十年用にしといて良かったよ。
備えあれば、うれしいな♪なーんてね、アハハ。
こっちの空港に着いてエクスチェンジして、近くのお店で何とかニョウ何とか麺を食べて(名前忘れちゃったけど、牛肉の牛を中国語でニョウって読むらしくて、そこだけ強烈に覚えてるのよ~)バスに乗って台北に来たのね。パオはホテル、私はゲストハウスに荷物を置いて......
って、ちょっと!信じられる!?台湾のこと全然知らなくてパオに丸投げしちゃった私も悪いんだけど、いくら会計が別だからって、違う宿泊先を手配するかね、普通!!異国の地でか弱い乙女をたったひとり放置するなんて、ひどい男よね。
ま、オーナーのおばあちゃんは日本語話せるし、部屋もまぁまぁ綺麗だし、同室の宿泊客も、言葉は通じないけど気立てのよさそうな女の子ばっかりだから、いいんだけどさ~。
そんで、タクシーに乗ってターゲットの住んでる大安に行ったわけ。
異国情緒溢れるっていうか、看板とか郵便ポストなんかも日本とは全然違うし、それでいて日本語の看板もちらほらあったりして。いきさつはどうあれ、やっぱり旅っていいもんよね。すっかりテンション上がっちゃって、あのお店何売ってんの?そこの歩いてる人が食べてる物なーに?あれ変な形してるけどなんて果物?みたいに聞きまくったら、パオは面倒くさそうに、でもちゃんと全部教えてくれた。
こういうところに、参っちゃうのよねぇ。
別に好かれてなくたっていい。ただそばにいられるだけでも私は、幸せだわ。
台湾の風景に溶け込んでるパオを見てると、私が知らない世界にいたんだなって感じがして、なんか胸が苦しくなるけど......
あ、でもね。面白かったのがさ、パオって公用語の中国語はできても、台湾語は分かんないわけよ。現地の人から、アンタ地元民っしょ?みたいな感じで台湾語で話しかけられることがあって、そういう時の焦ったような顔はちょっと見ものだったわよぅ。うっふっふ。
ん?
パオの話はもういいから、もっと食べ物の話をしろって?(見なくたってアンタの考える事は解るわよ!)
でも残念ながら、晩に食べたジーローファンっていう鶏肉ドンブリぐらいしかご紹介できるものがないのよね。だってさ、ずーっと聞き込みばっかで、呑気に食い道楽なんてかましてる余裕ないのよ~~ぅ!!
あとは飲み物かな......そう、台湾ではドリンクスタンドがあちこちにあってね、何回か買ったのよ。お米の粉でできたアイスココアみたいなジュースとか、ココナッツの入ったアイスミルクティーとか。さすが南国って感じのテイストよね。いや、季節が季節だし、南国とはいえそこそこ寒いんだけどさぁ。あーあ、せめて春に来たかったわよぅ。
あ、思い出した、確かパオがお米ジュースのことミージャンとか呼んでたわ。ザラっとしてて結構美味しかったな。
そんでさらに思い出した!
飲んでる時、私たちの近くにいた他の客がパオフゥって言ったような気がしたのよ。
『なんか今の人、パオフゥって言った?』って聞いたら、すっごい嫌そうな顔して
『あれはハオフー(美味しい)って言ったんだ』だって~。
ありゃ?またすぐにパオの話になっちゃったわねぇ。
もうちょっとぐらい、台湾で見たり聞いたりしたものの話を書きたいところだけど、同室の人たちが寝始めたから、私もそろそろベッドライト消さなきゃ。
それじゃあ、続きはまた明日書くわね。お土産になんか美味しいもの買って帰るから、楽しみに待ってなさいよ!
じゃあね、おやすみマーヤ! "
カーテンの隙間から覗く朝日が、閉じたまぶたの上に、細く明るい光の糸を垂らす。
うららは、ん、と顔をしかめて寝返りを打ちながら目を覚ました。馴染みのないシーツの感触に、異国のベッドの上にいることを思い出し、次いで、旅疲れのため熟睡していたことを知る。
携帯電話の背面ディスプレイに表示された時計を見ると、午前七時前を指していた。寝ぼけ眼でカーテンから顔を出してドミトリーを見回すと、ルームメイトのベッドは既にいくつか空になっていた。
(アラーム止めなきゃ)
ぼさぼさになった髪を撫でつけながら携帯電話を開き、そして気付いた。一時間ほど前に、パオフゥからのごく短い着信が、一回。
こんな時間にかけてくるとは、何の用事だろうか?だが、部屋を出てかけ直してみても通じない。
昨日コンビニで買っておいたサンドイッチ......甘めのタレが絡められた肉鬆(ロウソン)と呼ばれる肉でんぶが挟まったものだ......をペットボトルの茶で流し込み、身支度を整えながらもう一度電話をかけてみる。
「出ないわねぇ。充電忘れて切れちゃってんのかしら?」
あと三十分後に迎えに来てくれる約束になってはいるが、パオフゥの宿泊先まで、ここから歩いて十分かからない。
ちょっとした探索行も兼ねて、こちらから迎えに行ってみようか。
準備が終わったうららはバッグを肩にかけ、軽やかな足取りでゲストハウスを後にした。
街中では、朝食を求める人々が列をなしている店がちらほら見られた。バックパックを背負った観光客の姿もある。
「大盛況ねぇ。台湾式朝マックみたいなもん?私もお店で朝ごはん食べればよかったなぁ。よーし、明日はパオ引きずってでも食べに行くかんね」
拳を握って力強く頷いたうららだったが、
「小姑娘,要不要买槟榔?」
突然、近くから声をかけられてギョッとし、慌てて振り返った。
派手な屋台の奥にちんまりと腰掛けた小柄な売り子が、うららを見てニコニコしていた。笑った目尻が垂れて、人懐っこい老婆だ。商品を手に取り、差し出してくる。ビニール袋に数個入った、青々とした小さな実のような何か......
(これってアレよね、昨日もあちこちで売ってるの見かけたアレ)
噛むタバコみてぇなもんだ、とパオフゥは言った。
そんなに良いもんじゃねぇ。お前さんはやめときな、とも。
子供扱いされているような気分になった事を思い出し、うららは再びムッとした。パオフゥから見ればまだまだ若輩者に見えるのだろうが、すでに酒もタバコも親しき友である自分にとっては、今さら悪い知り合いが一人増えたところで、どうということはないと思うのだが。
「おばあちゃん、これいくら?あ、えーと日本語ダメ?なんて言えばいいんだっけ......」
あたふたしていると、老婆は顔の前で中指から小指までを立ててみせた。
「二......?いや、三......三元ってこと?」財布からコインを摘んで見せると首をふる。「違う?あ、三十元?そりゃ、三元じゃいくらなんでも安すぎだよねぇ。ゴメンよおばあちゃん」
代金を渡して袋を受け取る。果実を葉っぱで巻いた奇妙なものが数個、無造作に放り込まれているそれを、うららは急いでバッグにしまった。なんだか、こっそり悪いことをやってしまった子供みたいな気分だ。
「後で試してみよっと。パオに見つからないようにしなきゃ」
少しだけ後ろ暗い高揚感を胸に、うららはホテルへの道を急いだ。
ホテルといっても、言ってみれば雑居ビルである。店舗もたくさん入っているし、人も住んでいる。一階のフロントから吹き抜けを見上げると、ひとつの建物に凝縮された小さな街のように感じられて、その雑多な雰囲気が味わい深い。
昨日のチェックインの時は部屋に入れてもらえなかったが、今日は絶対に中から窓の外を見せてもらおう、と思いながら階段を駆け上がる。
ドアの前でちょいちょいと前髪を直し、服の裾の埃を払ってから、うららは小さなノックをした。予定を無視して勝手に押しかけたことについて文句を言われるに違いない。だから、ご機嫌取りのつもりで可愛く呼びかけてみる。
「パ~オ」
上目遣いで待ち構えてみても、パオフゥが出てくる気配はない。うららは首を傾げ、また何度かノックをした。
「パオ?まだ寝てんの?」
ドアノブに手をかけてみると、カチリという軽妙な感触があった。開いている。
「やだ、鍵かけてないじゃん。無用心ねぇ。まぁそこまで治安は悪くないみたいだけどさぁ......」
少しかび臭さを感じる簡素な部屋だ。パオフゥの姿はなかった。握りつぶされたタバコの箱や、空のペットボトルが床に落ちているが、服や靴などの身につけるものは一切見当たらない。うららは頭を掻いた。
「もう出ちゃったのかしら?しまった、すれ違ったかぁ」
窓の外の街並みを眺めながら、携帯電話を取り出してパオフゥにコールするが、やはり出ない。
「な~んで出ないのよぅ。今頃パオも、あっちに着いて私を探してるのかな......ちょっと!ケータイ見なさいよぅ!」
連絡が取れない以上、もう一度来た道を戻るしかない。そう思ったうららは、大きくため息をつくと、部屋を後にしようとした。
だが、その瞬間。
脱衣所の影から、目にも止まらぬ速さで人間の腕が伸びてきてうららを羽交い締めにした!そして同時に、針で刺したような熱く鋭い痛みが首筋に走った。
「あっ......!?」
まさかそんなところに人が潜んでいるなどとは露ほども思わず、虚をつかれたうららは、驚愕して相手を振り解こうとする。が、予想外の事態に混乱した思考と、両手を巧みに封じられている体勢ではうまく行かない。しかもまずいことに、どうやら何かの薬剤を注射されてしまったようだ。見る間に身体の力が抜けていく......。
力を振り絞ってペルソナを解き放つ。至近距離でツインクルネビュラの暴風を喰らって、相手はうららからもぎ離されるような形で床に叩きつけられた。壁が激しく撓んで大きな亀裂が入り、ドアの蝶番が外れて吹き飛ぶ。
もうもうと舞い上がる塵埃に噎せながら、うららは一瞬だけ敵の姿を見た。黒ずくめの服に黒いサングラスの男。意識を失ったのか、放り出された人形のようにぐったりしている。
(なに、これ......)
うららは壁に寄り掛かり、肩で息をしながら、回らない頭で必死に考えた。とにかく、この場から逃げなければ。よろよろと覚束ない足取りで部屋を出た。
だが、ふいにぐるりと世界が反転し、重力を失って......そこでうららの意識は途切れた。
夢を見ている。
崖の上に女が一人たたずんで、中国語の歌を歌っている。
綺麗な歌ですね。何の歌ですか?そう聞くと、女は籠からマンゴーを取り出してうららに渡す。別にマンゴーなど食べたくはないのだが。黙っていると、女はまた歌い始める。
仕方なくマンゴーに齧りついてみる。熟れていないのか異常に固く、そして酸っぱい。我慢して食べていると、種子が入っているはずの部分から、何か小さなものが出てきた。銀色に光る指輪だ。
見れば女はいつの間にかいなくなっていて、そこにいるのはパオフゥだった。ホッとして話しかけるが、返ってくるのはやはり中国語だ。
日本語話せなくなっちゃったの?ねえ、私よ。わかる?私のこと、忘れちゃったの?
懸命に伝えようとするのに、全く伝わらない。サングラスの奥の不審そうな目がこちらを見ている。
気が付くと、何故かうららは船の甲板に、パオフゥは波止場に立っている。船は出港の汽笛を鳴らしてゆるやかに岸を離れ、うららの手は目の前の男から引き離された。
男の名を叫び、握りしめていた指輪を投げる。お願い、受け取って。私のことを思い出して、と強く願いながら......
うららは目を覚ました。
だが、視界がおかしい。ぐにゃりと歪んだ映像を脳が処理しきれず、混乱する。
平衡感覚も失われていて、今自分が座っているのか、立っているのか、寝ているのかも分からない。
身動きが取れないこと、腕が背中の方に回っていること、首の後ろに負担がかかって痛みを感じていることなどから、もしかすると柱のようなものに縛り付けられているのではないか、と思った。
「睡醒了吗?」
近くで誰かの声がする。若い男の声だ。
音が反響するので、閉鎖された広い空間にいるらしいということが分かる。
「这个女人故意使手段。看我狠狠地教训她!」
「不行」興奮気味の男に、静かな、しかし凛とした雰囲気を持つ女の声が応える。「这个女人不过是引出目标的诱饵罢了」
コツ、コツ。足音が近づいて、視界に人影が入り込んでくる。うららの顎になにか冷たい金属でできた棒状のものが当てられ、そのままグイ、と顔を上向かせられた。
「う......」
思わず呻き声を上げるうららに、女は語りかけた。
「乖乖地呆着。我想杀的不是你,是那个男人」
何を言っているか分からない。だが、命の危険を感じる。再びアステリアを呼び出そうと試みるが、身体に異常をきたしているためか、波長が合わない。泡がはじけるようなもどかしい感覚だけが、ただ意識の底で揺らめいている。
(こいつら、何なの?パオはどこにいるの?
いつかみたいに、パオやマーヤや周防兄がいてくれたら、こんな奴らに負けないのに。
一人じゃ何もできなかった。悔しい。怖いよ。助けて......
パオ......!!)
その日の正午ごろ。
パオフゥは宿泊先のホテルへ戻ってきていた。爆発騒ぎとして地元の警察が調査している中、捜査官が制するのを振り切り部屋へ入ったが、ほんの数秒で、彼はここで何が起こったかをほぼ正確に把握した。
「......こいつぁ......」
玄関に落ちて踏まれた注射器から、彼の知る違法な薬の匂いがしている。台湾マフィアの間で流通しているものだ。
昨夜ゲストハウスの前で別れたうららの、じゃあまた明日ね、と笑った顔を思い出す。
パオフゥは、ぎり、と強く奥歯を噛みしめた。
昨夜、パオフゥは自分の部屋に帰り、しばらく現地のケーブルテレビ放送を虚ろな目で眺めていた。台湾では荒んだ放浪生活をしていた彼にとって、こうしたテレビ番組自体にあまり馴染みはないが、それでも懐かしい痛みに捕らわれる。
今日は風呂に入って普通に就寝するつもりでいたが、何となく飲みたい気分になった。
(酒、買って来ときゃ良かったなぁ。めんどくせぇけど出かけるか)
財布と携帯電話と鍵をポケットに入れ、ホテルを出てコンビニへ向かったパオフゥは、数十分後、高梁酒とつまみの入った袋をぶら下げて戻ってきた。
ホテルの駐車場を突っ切って裏口へ向かおうとした彼は、だが、そこで何者かに襲撃されたのだ。
殺気を感じ、とっさに銃撃をかわしたものの、コンビニで買ったばかりの品は宙を舞い、瓶は袋の中で大破した。
「あっ!?て、てめぇ......俺の酒に何しやがる!!」
パオフゥは激怒して指弾を放った。ビスッ、という音がして命中を確信し、ニヤリと笑う。地面に倒れた様子はなかったが、逃走の足音もないので、逃げずにうずくまっているか、立ったまま気を失っているかのどちらかだろう。刺客の正体を明らかにするため、パオフゥは近づいた。
だが、予想に反して、相手は膝をついてもよろめいてもいなかった。
両足で地面を踏みしめ、そして、憎悪のこもった目つきでこちらを睨んでいたのだ。黒いスーツを着た女だ。
小型の自動小銃を手にしており、反対側の腕に着けている手甲のようなものでパオフゥの攻撃を防いだらしく、コインはそこに食い込んでいた。
「你是"報复"吗?」
「......你到底是誰?」
女はそれ以上語らず、銃を向けて立て続けに五、六発撃ってきた。素早く横ざまに飛び、転がるようにして車の影に隠れる。近づいてきたところをペルソナで迎え撃つべく、身構えるパオフゥだったが、女はそれ以上追ってくることはなかった。あっという間に走り去り、夜の闇の中に紛れてしまう。
パオフゥはチッと舌打ちをした。意外と冷静な奴だ。これでは、どこから狙われるか分からない。致命傷を負うわけにはいかない。今は回復魔法を持っていないのだ。
やむを得ず、女が逃げたのとは逆の方向にパオフゥは走った。
夜とはいえ、市街地に入ればまだ通行人も多くいる。さすがに無関係の人間を巻き込むような真似はしないだろう、と思っていたが、予想を裏切り、女は通行人の有無などお構いなしに撃ってきた。射程距離の長い銃に切り替え、乱射ではなくピンポイントに狙ってくる。
「おいおい、マジかよ......!」
悲鳴が上がる街中を、パオフゥは駆け抜けた。敵の位置を探りつつ、向こうから狙われにくいポイントを選んで辿る。しかし、弾道から位置を悟らせない動き、時々避けきれずペルソナで防御せざるを得ないほどのフットワークの軽さ。相当の手練れだ。
夜が更け、朝になっても、このひりつくような攻防は続いた。
今日もターゲットの身辺調査をしなければならないというのに、こんな調子では仕事どころではない。うららに電話をして、日程調整の旨を伝えなければ。携帯電話を取り出し、コールした瞬間、また弾が飛んできた。
「うわっち!!」
携帯電話はパァンと砕け、パオフゥの手から離れて地面に落ちた。壁の影に隠れて顔を出したら、また二発撃ってきた。拾いに行く暇はなさそうだ。というか、今のはちょっと危なかった。タイミングがまずければ、脳漿をぶちまけることになっていたかもしれない、と思うとゾッとする。
「俺の携帯まで使い物にならなくしやがって、もう絶対許さねぇからな」
再びパオフゥは身を翻し、ビルの谷間を縫うように走った。
さらに数時間、攻撃は続いた。
相手はどうもペルソナ使いではないらしい。もしそうであれば気配で分かるし、第一、もっと早く決着が付いているはずだからだ。ということは、身体能力についてはこちらに分があるということだ。半日以上、逃げる獲物をずっと追い続けていれば、いくら鍛えている人間であっても疲れが見え始める頃だろう。
そろそろ、一気に畳みかけるか?
しかし、そう思った矢先に、戦いは終息を迎えたのである。
少し開けた場所を無防備にうろついて誘き出そうとしてみたが、全く撃ってこない。殺気も感じなくなり、完全に撤退を決められたことを察したパオフゥは悔しがった。
「クソッ。何だったんだ、一体」
ドッと疲れが出て、急に眠気を感じた。ホテルに帰って、うららに連絡を取って、とりあえず眠りたい。
重い足取りでパオフゥは帰還した。
そうして、彼の部屋を訪れたうららの身にまで危害が及んだことを知ったのだった。
敵は自分のことを知っていた。あの女の憎しみのこもった目つき。そして、マフィアの間で取引される薬物。となれば、天道連との深い因縁に関連性があるのは間違いない。しかし、仮に組織からの指示であるならば、あんな風になりふり構わず、無闇やたらと目立つ狙撃をするとは思えない。
おおかた、パオフゥに返り討ちにされた天道連の刺客の血族による復讐、といったところだろう。
つまり、敵の目的はパオフゥの命であり、大人しくそれを差し出さなければ、うららの安全は保障しない、という無言のメッセージなのだ。
身代金の引き渡し場所は、既に指定されている。
衝撃で吹き飛んだホテルのドアに、大きく殴り書きされた"1甲"の文字。
1甲とは台湾省道、つまり国道の一つを指す。これだけでは範囲が広すぎるため、警察にはその意図や具体的な場所を特定することは不可能だろう。
だが、相手に目星が付いていて、自らもまた復讐という昏い衝動に全てを捧げたことのあるパオフゥにだけは、分かる。復讐者が処刑場を指定する理由。それは、墓標の前に仇の首を捧げるためだ。
1甲沿いで思い当たる場所が一つある。大安市内の立体駐車場に追い込まれて、天道連の刺客とやりあったことがあった。何人もの薄汚い殺し屋が冷たい骸となった場所。奴はそこで待っている......。
夕闇色の帳が辺りを包む頃。パオフゥは、件の建物の前に立っていた。
立体駐車場は数年の間に廃ビルと化し、フェンスとシートに覆われて周囲の建物から隔絶されている。事件の痕跡をもみ消すついでに、マフィアの取引などで快適に使えるよう「改造」が施されたということだろう。
フェンスを乗り越えて中に入り、ビルの入口を潜った途端、物陰から間髪入れず襲いかかってくるものがあった。二本のナイフが、目にも止まらぬ速さで空を切る。
が、パオフゥはなんなくこれを躱して飛び退った。
刃物を手に攻撃してきたのはあの女ではない。黒いスーツ姿の男だ。だが、サングラスの下のシュッとした顔立ちが似ている。兄弟だろうか?
ちらりと辺りを見渡すが、組織の戦闘員が潜んでいるということはなさそうだ。それは、私怨による犯行という推測を完全に裏付けるものだった。
「就凭你一个人也想干掉我?」
パオフゥはあざ笑うように言った。
「当然可以......打死你!」
男はナイフを投げ捨てるとジャケットの内側から注射器を取り出し、驚くべきことに、自分の腕に勢いよく針を突き刺した。突如、獣のような咆哮を上げ、男は暴れ出した。その体が変容していく。
「......!!」パオフゥは驚愕した。
メキメキと音を立てながら、青緑に変色した皮膚が固い鱗となり服を突き破って全身を覆った。どのような原理かは分からないが、僅かな時間で、明らかに体積が二倍ほどに増えた。今まで、悪魔や亡霊、ゾンビといった多くの異形のものと戦ってきたが、それらに勝るとも劣らないほどの「化け物」だった。
パオフゥは、いつぞや珠閒瑠の理学研究所で目の当たりにした、忌まわしい人体実験の被験者たちを思い出した。腐った政財界と爛れた科学者が生み出した、哀れな生き物。あれに近い研究が、台湾黒社会でも行われているのに違いない。
どいつもこいつも、狂っていやがる。
「......谢谢你准备了豪华的派对来欢迎我,但我没有时间来跟你消磨」パオフゥの全身から青白い気が立ち昇った。「放马过来吧!」
うららは、濃厚になっていく死の気配に怯えていた。
なにしろ、呼吸ができないのだ。息が思うように吸えず、ひどく苦しい。全身の細胞と言う細胞から体温が逃げていくような感覚があり、震えが止まらない。視界が極端に狭まって、辺りがどうなっているのか判別がつかないし、聴覚に頼ろうとしても耳鳴りがするばかり。どれほど時間が経ったのかわからないが、もう長い間、こうして捨て置かれている気がする。
このまま私、死んじゃうのかな......。
パオは悲しんでくれるかしら?あの人の時ほどじゃなくていい。少しでも悲しいと思ってくれたら、それでいいの。
でも、もしそうだとして、私を殺した奴らにも復讐しようと思うの?......そんなの要らない。ボロボロになるまで心を磨り減らして、復讐なんてしようとしないで。アンタが思い出して辛くなるぐらいなら、いっそ......私のことなんて忘れてよ。
茫漠と広がる暗闇の中を漂いながら、とめどなく溢れてくる彼への想い。
忘れて。忘れないで。忘れて。......思い出して。
相反する二つの気持ちが混濁して、空虚な世界にひずみが生じた。うららは意識を手放し、深淵に沈んでいく......。
「......芹沢ぁっ!!」
コンクリートの柱に固く縛り付けられて力なく項垂れているうららをパオフゥが見出したのと、待ち構えていた女が容赦ない銃弾の嵐を浴びせてきたのとは、ほぼ同時だった。
ペルソナで防御したが、一発だけ止めそこなって左腕に命中した。
「ぐっ......!!」
ふらつきながら、壁の影に隠れる。
「幸亏抓了人质。像你这样的人,也知道保护重要的女人?」女は勝ち誇ったように声を張り上げた。
「......什么?她可不是我的女朋友......」
「是吗,太可惜了。我要让这个女人也尝尝失去重要的人的滋味」自動小銃を収め、代わりに拳銃を取り出して構える。「没那么容易死。我要折磨死你」
パオフゥは舌打ちした。この女、昨夜から今日の午前中にかけて、あれほどハードな追跡劇を繰り広げておいて、いささかも衰えを見せない。これも薬物の力なのだろうか。一方、先ほどの化け物との戦闘もあって、こちらは疲労困憊である。猛烈な眠気に意識が飛びそうだ。
女が遠巻きに回り込んできて、再びパオフゥを射程範囲に捉えた。転がりながら辛うじて連射を回避する。フロアの隅に積み重なった輸送用コンテナの山に、パオフゥは派手な音を立てて突っ込んだ。
「顽强的男人。但是,好像已经体力不支了」
空になった銃を素早くリロードしながら、女がゆっくりと近づいてくる。
「妈拉个巴子......」
多量ではないとはいえ、出血も加わって意識が朦朧としてきた。コンテナに手をかけて必死に身を起こそうとするが、力が入らない。ここが正念場だと言うのに。
ポトリ。
突然、何かが胸の上に落ちてきて跳ね、床に転がった。緑色の小さな実だ。パオフゥは目を見張った。この死闘の場にはあまりにもそぐわない、ささやかな嗜好品のプレゼント。
「......檳榔(ビンロウ)......か??」
なぜこんな所に。
思わず見上げると、コンテナの上に無造作に置かれた女性用のバッグから、ビニール袋が覗いている。あれはうららのバッグだ。攫われた時にこの廃ビルに持ち込まれたのだろう。
どうやら、パオフゥがぶち当たった衝撃でバッグが倒れ、その拍子に中身が飛び出したらしい。袋の中には檳榔がひしめいており、今にもまた数個こぼれ落ちそうだ。
「ククッ......」パオフゥは笑った。「ハッハッハッハ!お前の仕業かよ。やめとけって言ったのに興味本位で買いやがって、芹沢よぉ。本当にお前は......目の離せねぇ女だぜ」
女は突然笑い出したパオフゥに動揺し、思わず後退りをした。
「你为什么笑?在说什么啊?」
しばらく様子を窺ってみても、手負いの仇はコンテナの影にうずくまったまま動かずにいる。銃を構えてじりじりと、慎重に距離を詰めるが、逃げ出そうとする気配は感じられない。
死期を悟って開き直ったのか?ならば、その笑いが凍りつくまで全身に銃弾をねじ込んでやる。「去死吧!」
女は躍り出た。その瞬間、コンテナの影から目も眩むような稲光が迸る!
悲鳴を上げながら女は倒れた。感電し、気を失っている。
「......ふぅ......。まぁ、気付け薬代わりにはなったな」
パオフゥは立ちあがって肩で大きく息をつくと、ペッ、と赤い唾を吐き出した。
血ではない。檳榔を噛んだ時に出る液体だ。噛んで意識を覚醒させ、体勢を整えながら、女が限界まで接近してくる瞬間を待っていたのだ。こういう相手にはペルソナの射程距離を悟られれば不利になる。だから、応戦せず、ギリギリまで隠し続けたのだ。
「しかし、不味いねぇ。俺ぁ、こんなもんより酒の方が何百倍もいいと思うがな」
パオフゥに伸された二人の復讐者は、うららの携帯電話を通じて彼の通報を受けた地元警察によって連行されていった。
いずれも一撃で昏倒させたので、彼らの命に別状はない。苦戦を強いられながらも殺してしまわなかったのは、勿論、情けや功徳のためなどではない。殺せば、うららが悲しむだろうと思ったからだ。
そして、ようやく縛めから解放されたうららはパオフゥの手によって病院に担ぎ込まれ、数日間の入院を余儀なくされることとなったのだった。
点滴を受けながら病院のベッドで横たわっているうららの蒼白な顔を、枕元でパオフゥはじっと見ていた。外傷はないが、胸の上に置かれた腕には、きつく食い込んだ縄の痕跡が赤黒く残っている。やり切れない気持ちになり、その痕を指でそっと撫ぜた。その彼自身も、負傷した左腕に包帯が厚く巻かれている。
震える睫毛がわずかに持ち上がり、その下で目が泳いでいる。パオフゥが覗き込んでも、視線が合わない。
「......見えるか?」
「うん......ちょっとだけね」うららは弱々しく笑った。「助けに来てくれて、嬉しかった。ありがと」
パオフゥは眉間に深く皺を刻んで、俯いた。
「......礼なんか言うなよ。あいつらは俺に復讐しにきた天道連の関係者だ。俺の因縁に巻き込んじまってすまねぇ」
「ううん。いいの。でも......」悲しそうに顔を歪める。「く、クスリ......打たれちゃった。暗くて、寒くて、息ができなくて、辛かった」
「......芹沢」
「私......これからの人生、どうなるの?薬物依存症になって、あんな苦しい思い何度もするの?やだ......怖いよ、パオ......」
探るように宙を彷徨って胸元に置かれた手を包み込み、優しく握ってやりながら、パオフゥは言った。
「落ち着け、芹沢。お前が打たれた薬はドラッグじゃねぇ。薬物っていうよりは毒物に近い代物だ。少しの間は辛いと思うが、その後の依存性はねぇ」
「......そ、そうなの?」うららは泣きそうな顔になった。「そうだったんだ......よ、良かったぁ」
「............」
良かった。確かにそうだ。だが、もし打たれたのがドラッグだったとしたら?
幸運にも生かされていたが、もし殺されていたとしたら?
吐き気がする。
「パオ?」
黙っている彼に不安を覚えたうららが、冷たい手で握り返してくる。
パオフゥは目を伏せ......彼女の上に屈み込んで、かさついた唇に、唇で触れた。
ほんの一瞬のことだった。
視覚に異常がある状態とはいえ、何をされたのかは流石に分かったらしい。言葉を失ったうららが、口元に指をおそるおそる寄せた。もっと血行が良かったなら、その顔は真っ赤になっていたことだろう。
「......また来るぜ。安静にして、早く治せよ」
パオフゥはきまりが悪そうな顔でそう言い残すと、急ぐように病室を後にした。
事件が起こってから、五日が経った。
ターゲットの身辺調査を終えたパオフゥは、データを暗号化してCDに保存すると、煙草の火を灰皿でもみ消して立ちあがった。
結局、依頼主の懸念は杞憂に終わった。
彼女の婚約者に浮気の気配は微塵もなかった。それどころか、逆にストーカー女につけ回されて精神的に追い詰められていたのだ。
愛する人に危害が及ばぬよう、故郷に帰らず孤独に耐え続けている男。今のパオフゥの立場では直接救ってやることができないが、調査結果の報告を通じてこれから真相を知ることになる彼女と、一刻も早く二人で手を取り合って、明るい方向へ進んでいってくれればいい、と願う。
事のあらましを聞いたうららは、不安そうに顔を曇らせた。
「そっか。とりあえず浮気じゃないなら良かったけど、まだ問題は解決してないんだね」
病衣を身に着けてはいるが、体調は回復して概ね平生通りになった。ベッドに腰かけ、膝の上で畳んだタオルケットを抱えている。
「私、調査の手伝いもできなかったし、電話も取れなかったし......役に立てなくてゴメン」
「気にすんな。元々、お前のは"単なる旅行"だしな。頭数に入れちゃいねぇよ」
新規依頼者の応対をするためにうららから預かっていた携帯電話を、ポイと放って寄越した。
彼女はそれを受け取りながら、ハァとため息をついた。
「"旅行"が聞いて呆れるわよぅ。私、台湾に来て一週間経つのに、観光らしいことひとっつもできてないんだかんね」がっくり肩を落とす。「マーヤに手紙出す予定なのに、このままだと、続きに書くことが何もないわ。ねぇ、パオ......仕事終わったんだから、今日、ちょっとぐらいどっか連れてってくんない?」
今日の午後、もう一度精密検査を受けた後、特に問題がなければうららは退院することになっている。
「どっかって、どこだよ?」
「な~に?本当に連れてってくれんの?」うららは身を乗り出した。「じゃあさ、じゃあさ。月下老人ってあれ確か台湾だったわよねぇ。ご利益あるらしいじゃん?祈願しに行きたいなぁ~」
恋愛のことになると人一倍熱心になるうららに似つかわしく、縁結びの神を詣でたいという要望にパオフゥは顔をしかめた。
「あぁ?そんなかったりぃ所はごめんだぜ。別のにしてくれ」
「ちぇっ、ケチ。......そうは言ってもねぇ。他に何が名物とかよく分かんないし」
下調べもろくにして来なかったうららは考え込んだ。
(台湾に個人的な用事があるんじゃなかったのかよ)パオフゥは苦笑する。嘘が下手な奴だな。
「お前、夜市には行ってみたくねぇのか?台湾と言やぁ夜市だぜ。ここを出てからのんびり歩けば、丁度いい時間に着く距離だ」
「夜市!?......うわぁ、それいいじゃん。行きた~い!」
花が綻ぶようなうららの笑顔が、妙に心に沁みた。
うららのスーツケースを引いてやりながら、彼女に合わせたゆるやかな歩調で、夕暮れの街並みを歩く。
「ご飯も汁物も食器持ち上げないの?絶対食べにくいよねぇ」
「それがマナーだからな。こっちじゃ皆慣れてんだ」
「でもさぁ、飲み物飲む時はコップ持つんでしょ?な~んか納得いかないわ」
瑣末な話題が心地いい。先日、衝動のままに触れるだけの淡いキスをしてしまったパオフゥだったが、そのことについては、ずっとどちらも口にはしないでいる。
しかし、会話が途切れてふと彼女を見た時、ドキリとしたように視線を軽く逸らされてしまった。不自然な動きを誤魔化すように辺りの風景に目をやっている。それでパオフゥも何となく照れてしまい、その後は、目的地に着くまでずっと二人、黙って歩いた。
夜市は、すでに多くの人で賑わっていた。軒を連ねてひしめいているそこらじゅうの屋台から、あらゆる食べ物の匂いが漂ってきて渾然となり、嗅覚を刺激する。連なった提灯やサイケデリックな色合いの看板、茹で上がって並べられる紫色のトウモロコシなどを、もの珍しそうに目を輝かせながらカメラに収めていくうらら。
「お寿司の屋台まであるじゃ~ん。日本じゃ考えられないわねぇ」
「おい、写真ばかり撮ってねぇで、そろそろ食えよ。どんどん消化していかねぇと、旨いもの食いそびれちまうぜ」
なんといっても、食の国・台湾である。ここには、様々な美味が、何日かけても食べ尽くせないほど溢れているのだ。
二人は屋台を回り、旺盛に食べ、そして飲んだ。
アツアツの肉あんが詰まった饅頭、魚のすり身を揚げたもの、台湾風おでん、串に刺さった飴がけのフルーツ、やたらと大きいフライドチキンなどを、フレッシュジュースで流し込む。
日本の夜店と同じように、ゲームを供している店も多かった。射的や輪投げといったお馴染みの遊びだけでなく、酒瓶を糸で釣って立たせるもの、麻雀牌を使ったビンゴのようなものに、なんと、"金魚すくい"ならぬ"エビ釣り"まである。
うららにせがまれて渋々ながら射的に参加したパオフゥだったが、的に当てるのは十八番とばかりに、つい本気を出してファインプレーを連発し、周囲の客の喝采を浴びて居心地の悪い思いをする羽目になってしまった。
「ったく、なんで俺がこんなことを......」
景品として手に入れた大きなクマのぬいぐるみを括り付けたスーツケースを引いて、仏頂面で前を歩いていくパオフゥを見ながら、うららはずっと笑っていた。
二人の食べ歩きはさらに続いた。
台湾産の小さな牡蠣が山ほど入ったオムレツのようなもの、ピリ辛に味付けされた魚介、ジューシーなソーセージなどなど......。
「今更だけどさ、お酒売ってる屋台はないのぉ?こんだけお酒に合うメニューばっかりなのに。台湾ビールとか飲みたいわねぇ」
「夜市で酒は売ってねぇよ。まぁ、ホテルに帰る前にコンビニで買えばいいさ」
それを聞いてはたと気付いた。そういえば、今夜泊まる場所の話をしていない。事件に巻き込まれてしまったため、一日目に泊まったゲストハウスは延泊せずに契約終了となったが、また頼めば泊めてもらえるだろうか?
「ねぇ。そういや、今日泊まるとこの話だけど......」
パオフゥは立ち止まった。スーツケースにぶつかりそうになり、うららも慌てて急停止をかける。後を歩いていた客が何人か、迷惑そうな顔でこちらを見ながら追い越して行った。申し訳なさそうな顔でぺこぺこと頭を下げ、それからパオフゥに向かって頬を膨らませた。「もう、急になにさ!?」
彼はうららに横顔を見せて何か考えている。いや、そうではない。露店の品を見ているようだ。
「ちょっと待ってろ」
パオフゥは売り子の青年と何か話し始めた。露店にはアクセサリーが所狭しと並んでいた。黒い布の上に敷き詰められた装飾品が、ライトを浴びてキラキラ光っている。シルバーの重厚なブレスレットやイヤリングが目を引き、パオに似合いそうだな、などと思いながら眺めていた。
「这是送给女朋友的礼物吗?如果是这样,不要送项链,还是送戒指好」
青年は商品を指差しながらパオフゥに勧める。
「......不知道她的号码,还是算了」
「号码大概的就行。如果不合适,可以当吊坠用。送戒指最重要是表示心意」
「......」
会計を終えたパオフゥのそばに、うららが寄ってきた。
「終わった?」
パオフゥは無言のまま握った手を突き出した。顔は明後日の方向を向いたまま、ほら、受け取れよ、と言うように拳を動かしてみせる。うららが戸惑いながら掌を差し出すと、少し開いた彼の指の間から、ころりとしたものが落ちてきた。
それは、小さな赤い石を抱いた銀色の指輪だった。
数日前に見た夢が一瞬フラッシュバックして、早鐘を打つように鼓動が高鳴る。
「これ......私に......?」
パオフゥは碌にこちらを見もせず、あぁ、とか、まぁな、とか、何かそんなような事を口の中でもごもごと言った。
そのまま指に嵌めて試してみると、二本目でぴったりとフィットした。右手の薬指に、華奢なリングが輝く。
「サイズ......ぴったりだわ。すごく綺麗。......ありがと」
うっすらと目を潤ませて嬉しそうにしているうららを横目で見て、パオフゥは迷いながら切り出した。
「......今夜、のことだがよ。......俺のホテルに来いよ」
驚きに目を丸くし、真っ赤になって絶句している彼女の様子を見て、慌てて付け加える。
「お、おい......。やらしい意図じゃねぇぞ。この国にいる間、またああいう連中に狙われるかもしれねぇだろ。俺の目の届かないところで、お前に何かあったら......」
「あ、あぁ、そういう事......?うん、そだね......」
恥じ入るように俯き、黙り込むうらら。パオフゥはがしがしと頭を掻いた。
「......いや。まぁ、ちょいとぐらいは、そういう意図もあるけどな......」
口から飛び出るのではないかと思うほど、うららの心臓は激しく打ち鳴らしていた。
夜十時を回って、夜市を訪れる人はますます多くなってきた。観光客らが、屋台の前で立ち尽くしている二人をジロジロ見ながら通り過ぎていく。うららの手を取って、パオフゥは人ごみの中を歩き始めた。
長いこと、二人は黙ったままだった。離れないように繋いだはずの手には、本来の目的以上に力がこもっていた。
台湾の夜は、ゆっくりと更けていく。