お前は俺の何なんだ
「いやぁすみませんねぇ、この契約書かなり古いフォーマットなんで」
スーツ姿の男は苦笑いしながら、製本捺印されたそれを封筒に入れてパオフゥに手渡した。
「赤ペンにお時間取らせてしまって申し訳ない。しかし、これでようやく契約成立ですね」
つまり、大手探偵社からの業務委託も受けることができるようになり、さらに多くの依頼や情報に関わる機会を得たという事だ。隣に座って固唾をのんでいたうららの、ホッとする気配が伝わってきた。
差し出された手をがっしりと握り返しながら、パオフゥは唇の端を持ち上げてみせた。
「改めてよろしくお願いします」
「こちらこそお願いします。あ、そうだ、お客様向けの資料なんかも参考までにお渡ししておいた方がいいですね。そのまま、おかけになってお待ちいただけますか」
男が応接室を出ていくと、うららは文字通り胸を撫で下ろしながら
「あ~緊張したわぁ」と小声で呟いた。
「言うほど大したことしてねぇだろ」
「む、あんたの苦手そうな雑談系の対応は全部引き受けてあげたでしょ?結構お役に立ったと思いますけどぉ」
確かにその通りだった。彼の隣でニコニコして頷きながら、お喋りな相手には如才なく合いの手を入れ、一通り盛り上がったらあとは自然にスッと引いて、また自分のポジションに戻る。
経営を左右するような交渉ごとではまだまだ出る幕のないうららだが、トーク面においてはなかなかのアシストだったと思う。だが、素直に褒めるのも何か落ち着かない気がして、パオフゥは肩を竦めた。
「ヘッ、しゃべくってただけじゃねぇか」
「ていうかさ、こっちは場を和ませたくて結構必死なわけよ。あんたって相手がお取引先でも遠慮ないんだもん。ここの文言が足りないだの、甲のナントカ権がどーだのってさぁ」
「俺は別に喧嘩ふっかけてる訳じゃあねぇんだ。リーガルチェックってのはキッチリやっとかねぇと、後で受け手側が痛い目見るんだぜ 」
「ま、分かるけどさー。会社勤めしてた時も、法務部の人が同じようなこと言ってたもん。契約書って基本、作ってる側が有利な内容になってるもんだって」
うららは昔を懐かしむような目でほうっと息をついたが、その顔がにわかに曇る。
「あ、ヤバ。緊張解けたらお手洗い行きたくなってきたかも」
「......おいおい」
「うーん、意識し始めたら余計行きたくなってきちゃった」
背中を丸めてそわそわしている。確か、このオフィスから廊下に出てすぐ右手にトイレがあったな......とパオフゥが考えたその時、先ほどの男が戻ってきた。
「お待たせしました。書類をお渡しするのと併せて、早速お願いしたい案件が二つほどありますんで、要件説明も兼ねて今回は私の方から。お時間いいですか?」
「ええ、勿論です」男の動きに合わせて机上のファイルなどをどかしながら、パオフゥはうららを一瞥した。「俺が聞いておくから、お前は外してていいぞ」
「え?でもねぇ」
困ったようにちらりと見ると、男はにっこりと笑みを浮かべた。
「ああ、ああ、お気になさらず。ご不明な点があれば後からまたご説明しますから」
そこまで言われては固辞することもできない。うららは厚意を有り難く受け取ることにした。
「じゃあ、申し訳ありませんがちょっとだけ......失礼しますね」
軽く会釈して出て行く後ろ姿。
それをにこやかに見送ってから、おもむろに、男がパオフゥに囁いた。
「いやぁ、素敵な奥様ですねぇ」
ちょうど(運悪く)湯呑みを口に運んでいたパオフゥは、盛大に噎せた。茶を噴き出さずに済んだのが、せめてもの僥倖だった。
その反応を、照れているせいだとでも解釈したのか、咳き込んで言葉にならないパオフゥをよそに、饒舌な男はしゃべり続ける。
「快活でいらっしゃるし、さりげなく気配りなさる方で羨ましいですねぇ。ウチの家内も職場恋愛で結婚したんですがね、いや、コレがまた気が利かないのなんのって......」
代表一人に対して従業員一人、しかも互いに親しい口調の男女とあっては、夫婦経営と勘違いする気持ちは分からないでもない。それでも、二人の名を知っていればこんな間違いは起こらないはずだが......そういえば、担当者の上司であるこの男、途中でさり気なく打ち合わせの場に入ってきたので、名乗るタイミングがなかったような気がする。
パオフゥは手の甲で口元を押さえながらどうしたものか思案したが、どうせ窓口担当者本人ではないのだし、そうそう顔を合わせることもないだろう。せっかく持ち上げてくれているのを無下に否定して、気まずい空気にするのも得策ではないと判断し、この話は流すことにした。
「それで、案件の方は......」
「ああ、ああ、そうでしたそうでした。いやすみません、無駄話ばっかりで。それではまず一件目ですが......」
「おまたせー。......何ぼーっとしてんのよ」
スーパーの入り口で待っていると、うららが片手にビニール袋を、反対の手にエコバッグを下げて出てきた。
まあ、こういう所は確かに所帯じみて見えるかも知れないが。パオフゥは横目で観察しながら思った。それにしても、素敵な奥様はないだろう。
「なぁにぃ?人のことじろじろ見ちゃってさぁ。今日の私のカッコ似合ってないって言いたいわけ?」
うららが着ているのは、タイトなシルエットの黒いドレススーツで、OLというよりは"これからお見合いパーティーへ行くのよぅ"というセリフの方が似合いそうな、小洒落た装いである。
下品ではない程度に大きく開いた襟元からうかがえるバストの形はかなり小ぶりだが、それが逆にマニッシュな印象を与えるのに一役買っていて、
(......悪かねぇんだよな)
そう思っても、口にするのはなんとなく憚られる。パオフゥはチッと舌打ちすると、無言のままスーパーのビニール袋を奪い取り、車に向かって歩き出した。
「あっ、ちょっと待ちなさいよぅ」
ヒールの音が慌てて追いかけてくる。パオフゥは、ほんの少しだけ歩みを遅くした。
事務所に帰ると昼時をとっくに過ぎていた。
「緊張したからお腹すいたわね!よ~し、ちゃっちゃと作っちゃうから待ってなねぇ」
ジャケットを脱いでエプロンをかけ、給湯室に入っていくうらら。
二階の自室に荷物を置いて戻ってきたパオフゥは、廊下から中をのぞき込んだ。
元々、簡素なIH調理器と冷蔵庫しか備え付けられていなかったこの小さな空間に、今ではガスコンロ、炊飯ジャー、レンジ、食洗機、コーヒーメーカー、食器棚などが所狭しと並んでいる。
共に仕事をするようになった当初は、昼食として自分の弁当を持参していたうららだが、パオフゥのあまりの不健康な食生活ぶりを目の当たりにしてから「もー見てらんないわ!明日からあんたの分も作ってくる!」と宣言するまで、さほど時間はかからなかった。
「俺の分の手作り弁当だぁ?阿呆。そんなかったるいモンいらねぇよ」
とは言ったものの、明くる日、わざわざ買い揃えたらしい新品の弁当箱一式を開けて、綺麗に盛りつけられた中身を楽しそうに広げるうららに「持って帰れ」とまで言うのは流石に忍びないと思ったのであろう。しぶしぶ食べるパオフゥの姿があった。
「ど~お?美味しい?それともイケてる?」
(......なかなかのもんじゃねぇか)と思いつつ、ついフンと鼻を鳴らしながら「まぁ及第点だな」などとクールを気取ってしまうパオフゥだった。
それから数ヶ月の間、使命感に燃えた彼女は、甲斐甲斐しく二人分の弁当をこさえてはせっせと持ってきていた。だが、ある日の休憩中、ため息をつきながらこう言ったのだ。
「もう面倒臭くなっちゃったのよねぇ、お弁当」
片手で新聞を読みながら、絶妙な甘辛さが後を引く照り焼きチキンを頬張っていたパオフゥは、ピクリと反応し、新聞の端からうららを盗み見た。
(何だと?)
それは困る。今ではもうすっかりこのバランスの取れた心づくしのお手製弁当に体が馴染んでしまって、昼時になると決まった時間に腹の虫がうるさく鳴き始めるほどだ。これは店屋物で済ませている朝晩には起こらない現象だ。
「正直、やめたいなぁって思ってんの」
「......なんでだよ」
自分でもどうかと思うぐらい、拗ねたような声色になってしまったが、幸い、そんなことには構わない様子でうららは続けた。
「だってさ、自宅で作って、二人分の弁当箱に詰めて持ってきて、そんで二人で同じ場所で食べるのって、意味なくない?その持ってくる手間、弁当箱持って帰って洗う手間、すごい無駄じゃん?」
うららはテーブルをバン!と叩いた。
「だからさぁ、ここで作ればいいと思うわけ。作りたての状態で食べられるし!どう、名案っしょ。だからキッチン周りの備品買ってよぅ。福利厚生施設の充実って大事なことだと思うし」
......どうやら、もう昼飯を作らない、という意味ではなかったらしい。
「ねぇ、ダメ?いいでしょ?」この上なく真剣な目で訴えてくるうららに、内心ホッとしたパオフゥが、異論など唱えられようはずもなかった。
かくして、うららの小さな居城であるこのキッチンが築き上げられることとなったのだ。
城主の楽しそうな鼻歌を聞きつつ、そのあちらこちらへと忙しなく動く後ろ頭を見ているうちに、油に何かを潜らせるジュワという音が立った。
揚げ物と同時進行で手早く野菜を水洗いして切り、既にボウルの中で準備のできた何かと混ぜ合わす(パオフゥにはその工程と食材が把握できていないので"何か"としか認識できないのだ)。
アルミのバットにクッキングペーパーを敷き、揚げ物の向こうで手鍋をかき混ぜ、冷蔵庫からタッパーを出してレンジにかけ、丼に白米をよそう。
個々の行動が全く別の軌跡を描いているように思えるが、見ている内に、それらはいくつかのメニューに収束していった。
カラッと油の切れたかき揚げが丼飯の上に乗り、醤油の香りの立ち上る餡を身に纏った。ボウルから小鉢に盛りつけられたオクラの白和えは鮮やかな色彩のコントラストが美しい。ついでに、レンジからは、事前に作り置いたものらしき飴色の煮っころがしが湯気とともに登場した。
「できたっと。......ねぇ、パオ相当お腹すいてんの?さっきからそんなとこでじとーっと眺めちゃってさ」
菜箸を空中に止めたまま、戸口の影にひっそりと立っているパオフゥを振り返る。
「んじゃさ、お盆出すから、出来上がってるやつ持ってってよ。私お茶入れてくるわ」
――素敵な奥様ですねぇ。
突如、あの呑気な声が耳の奥でリフレインする。
ギョッとし、次いで渋面を作るパオフゥの様子に、うららは首を傾げた。
「ん?お茶じゃない方がいい?でもコーヒーじゃ合わないと思うわよぅ。......あ、待って!そだそだ、お歳暮にもらったほうじ茶があったわ。それで我慢しなよ、うん」
「......」
なぜ今まで気付かなかったのか。
(......こいつ、本当にまるで俺の女房みてぇじゃねぇか?)
封を開けたばかりの茶葉の香りを楽しみながら急須に湯を注ぐその姿を、つい半目になって凝視してしまうパオフゥだった。
その日の午後は散々だった。ふとした瞬間に思考があらぬ方向へ行ってしまい、集中が途切れてしまうのだ。らしくないと思うが、どうにもならない。気持ちだけが上滑りし、メールで届いた資料の同じところをもう三度も読み返しているというのに、全く頭に入ってこない。
一方のうららは自分の仕事が一段落して暇そうにしている。
「パオー、今空いてるんだけど手伝うことある?」
「特にねぇ」
「なーんか機嫌悪くない?もしかして、行き詰まっちゃってんの?」
「......うるせぇな」
「ふ~ん、敏腕営業マンにもあるのねぇ、スランプってやつが。ま、じゃあ手伝えそうなことあったら言ってね」
勝手に納得したうららはさっさとデスクを離れて隣の部屋へ行き、なにやらゴソゴソやっている。かと思うと、分解したダンボール箱を両脇に抱えて出てきた。どうやら、余った時間を掃除に費やすことに決めたらしい。
シャツの袖を捲り上げ、バケツと雑巾を運んで行ったかと思うと、今度はシール剥がしスプレーを取りに来る。おそらく、中古で買ったキャビネットの引き出しの糊残りが気になったのだろう。満足げに出てきたところを見ると、うまく処理することができたらしい。ふたたび、雑巾で床や窓を拭く作業に戻り、時折バケツを持って往復している。
(完全に主婦だな)
ちょこまかと動き回るのを、逐一目で追ってしまっている。しばらく経ってそのことに気が付いた時、パオフゥは心底愕然とした。
(俺は一体どうしちまったんだ?今まで結構な時間を過ごしてきて、こんなに芹沢の動向を気にしたことがあったか?......元はと言えばあのクソ野郎のせいだ。素敵な奥様だ?妙なこと言いやがって。そうだ。踊らされてたまるかよ。"こいつ女房っぽいかも"という目で見ちまうからダメなんだ。"こいつは家政婦だ"と思やいいんだよ)
と、パオフゥが剣呑な目つきで決意を固めているところへ、
「はー疲れた疲れた」
肩を回しながら、うららが戻ってきた。身を投げ出すように椅子に腰かける。
(こいつは家政婦......ただの家政婦だ......)
早速、パオフゥは強く念じるように思い浮かべた。だが、何だか急に苦しくなって息をつく。
「すっごい片付いたわよ。あとで見てみてよ、ビックリするから」うららはニッと白い歯を見せた。「特に窓際。あっちの部屋って日当たりいいから、スペース開けて、鉢植え飾りたいなって思ってたんだ。......あの、実はね」
ちょっと困ったように眉を下げて笑う。
「ほら、前に教えてくれたじゃん......美樹さんが持ってきて検察庁の中庭に植えたっていう思い出の花。知り合いに株分けしてもらって、今、うちのベランダで育ててるんだ。そろそろ咲きそうだから、さ」
心臓のあたりをギュッと力任せに掴まれるような感覚があった。
「......」
「えっ、ちょっと、大丈夫!?胸押さえて、どしたの?胸やけ?」
思わず体を折り曲げたパオフゥの傍に急いで寄って来て、優しく背中をさするうらら。
「そういえば今日、なんか調子悪そうだったっけ。揚げ物食べさせたのがまずかったかなぁ、気付かなくてごめん。吐きそう?洗面所まで歩ける?」
(何なんだ、ちくしょう......お前は......俺にとっての......)
もはや自己暗示では誤魔化しきれなくなった気持ちに、逃げ場を失ってしまったパオフゥは目を閉じた。